瑞応寺には、13基の板碑がある。本区としては、その基数に於いて、第1位であると思われる。現調査段階においては、当区に二基しかない連碑が、当寺に2基あることである。いろいろの観点から、14基の中、9基について述べたいと思う。あとの4基は、年代が不明であるし、形状その他について、いろいろ難点があるので省略する。

■板碑(7)

小型であるが、弥陀一尊種子板碑である。上部の山形は完全な形に近く、そして、横に彫られた二条線もはっきりしている。額部も、さしたる磨滅もない。種子は、薬研彫りで形よい。蓮台の彫りも形よく美しい。蓮台の下には、「本浄禅尼逆修」の六字が彫られている。信仰に熱心な一女性が生前に供養として造立したものであろう。紀年銘は「永享十三年」と右側に、左側には、「二月廿三日」と日時が彫られている。根部の右下端が欠け損しているのが惜しく思われる。  永享13年2月23日(1441)は、後花園天皇、足利義教将軍の時代である。

 
 

■板碑(8)

この板碑は、区内に珍しい連碑である。縦66p、横104pである。区内でも最も大きいものと思われる。  その概形は、中央部の上端が欠けて凹部となり、両端の上部が、幾分丸味をおびて突き出している。右側に少し凸凹がある。左側は、中央部が突き出しているが、左側は、あまり凸凹がない。下部は、丸味をおびて、種子の下から欠けている。下部が欠けているのがいかにも惜しく思われる。もし、欠けていなかったならば、さぞかし素晴らしい板碑であろうと思われる。  枠線は、1pの幅で、上部から、左右にあざやかに、彫られている。中央の線から、左右の枠線まで 何れも41pである。  右側の板碑の額部には、五仏が、種子をもってあらわされていると思われる。種子の下には、蓮座がある。何れも十枚の蓮辨がある。右から、一番目は、カーン「不動明王」。二番目は、種子 バク「釈迦如来」である。三番目は、マン、「文殊菩薩」と思われる。四番目は、種子の下部だけで推読が困難である。けれども、蓮座だけは、明らかに認められる。五番目も、蓮座だけ明らかで、種子は全然わからない。  五箇の蓮台の中央下に、天蓋が彫られている。天蓋は、30pの幅にまたがり、そして、約8pの高さに及んでいる。薬研彫りで美しく立派なものである。天蓋の下には、種子、バク「釈迦如来」が彫られている。薬研彫りである。種子の全長は22p、幅は、20pに及んでいる。そして、種子は蓮台の上にあり、子房らしいものが認められる。蓮座の全容が見られないのは、まことに遺憾である。  天蓋から左右に、瓔珞がある。長さ24p、幅3p程である。上端には、二等辺三角形で、底辺4p、高さ1pであり、その下に、直径0.5p程の円球が、1.5pの間隔で、三列に、十五段に彫られている。そして、十五段目は、左右に三角形、中央には、円球が彫られている。その下に、底辺が1.5p、高さ1pの二等辺三角形が彫られている。  この瓔珞には、三角形四箇と、33箇の直径0.5pの珠で構成されている。そして、この間隔、左右前後の隔たりには、整然として、少しの乱れも見られない。彫刻師の精魂の程が思われる。瓔珞は左右とも、全く同じ造りである。連碑の左側は、磨滅の結果、種子は見られない。しかし右側と対照的な所に、左端から数えて、一番目の所に、蓮辨と思われるもの五枚、二番目の所に一枚、中央の天蓋の上に一枚認められる。一基の板碑に五仏、二基合わせて十仏となし、十仏の供養を考えたものと思われる。  蓮台の中央下と思われる所に天蓋が彫られている。天蓋は右側の板碑と、大きさその他、全く同じようである。  種子、キリーク「阿弥陀如来」は、天蓋の下に見事に彫られてある。彫りは、薬研彫りである。その最長は、30p、幅、20p程である。涅槃点は菱形に近く、幅1.5p、高さ1.2pの大きさである。彫りは、薬研彫りで見事である。  また、瓔珞は、右側の板碑と同じように、天蓋の左右から、全く同じ形式で造られている。この板碑がもし完全な形であったなら、さぞかし、素晴らしい立派な板碑であろうと思われる。下部が欠け損じているのが何としても惜しまれる。また、十仏か、それとも、上部に、十一仏と、釈迦如来と、阿弥陀如来と併せて十三仏かも知れないとの推定もなしうる。紀年銘がわからないので何とも断定しかねることは残念である。けれども当区としては、貴重な数少ない板碑の一つであると思う。


■板碑(9)

武蔵連碑である。縦96p、横67pの大きさである。中央の線刻によって左右に別れる。右の板碑も、左の板碑も、横28pである。框線は細やかに彫られている。板碑の左上部の端が欠けているが、大体に於いて原形に近いと思われる。  右の板碑の上部には、天蓋が彫られている。天蓋の長さは、右端から、左端まで、23p程である。そして上下の高さは、8pである。右端には、瓔珞がある。上は、そろばん珠のような形である。その下に、十一段三列になって、小さい珠が彫られている。格段の間は、約1pであり、列と列の間は、1pである。そして一番下は、そろばん珠のような形で、横1.5p、縦1.5pである。天蓋の左右から下に、瓔珞が彫られている。その長さは、14p、幅は2p程である。十一段目は左右が三角形で、中央が小珠の形に彫られている。  また、天蓋の中央部には、3つの短い瓔珞が彫られている。この小さい瓔珞は、3箇の小珠と、そろばん珠のような形のもの1箇からできている。そして、小珠と小珠の間は1pである。また、小珠と最後のそろばん珠との間も1pである。この小さい瓔珞長さは、5p程である。また、瓔珞と瓔珞の間は、3p程である。  3箇の短い瓔珞の中央下、約1p程の所から、「南無妙法蓮華経」と、刷り書の7文字の題目が、42pの長さにわたって彫られている。美しい彫りである。中央の「南無妙法蓮華経」の右側には、23pの長さにわたって、「南無多宝如来」の6字が彫られている。そして、お題目の左側には、23pの長さに及んで、「南無釈迦牟尼仏」の7字が彫られている。美しい彫りである。  そして、右端の瓔珞の下、7p程の所から、「右志者為過去妙円霊也」の10字が刻まれていると思う。また、「南無多宝如来」の下、7p程の所に、「及□□□」の4字が彫られているように思うが、「及」の以下3字は読みえないのが残念である。恐らく供養者の人名であろうと思われる。  左端の瓔珞の下には、7p程の所に、「文和二年八月二十二日」の紀年銘が認められる。文和2年(1353)は、北朝年号で、後村上天皇の御代、南朝年号の正平8年である。  そして、「南無妙法蓮華経」の題目の下には、蓮台がある。9枚の花弁、中房も見られ、また、6箇程の蓮子が認められる。蓮台として可成、豪華なものと思われる。  連碑の中、左側の板碑は、天蓋、「南無妙法蓮華経」の題目、「南無多宝如来」、「南無釈迦牟尼仏」、「瓔珞」等、右側とほぼ同様である。  左の板碑にも、瓔珞の下、5p程の所から、「右志者為比丘尼□□」が認められる。さらに、その側下に、「得□□」の文字が彫られている。けれど、最後の方の文字は読みえない。  この連碑は、当区では、最大なるものであり、また最も古いものの一つである。墓地から発掘され、寺宝といわれている。この板碑を造立供養した人は、いかなる人であろうか、富、地位、権力、に恵まれた人と思われる。  当寺には、13基の板碑がある。紀年銘のわかる8基の中、1基は、鎌倉時代の中期、3基は、吉野時代、4基は室町時代の中期である。ことに、連碑が2基あることは、珍しい事である。