瑞応寺には、13基の板碑がある。本区としては、その基数に於いて、第1位であると思われる。現調査段階においては、当区に二基しかない連碑が、当寺に2基あることである。いろいろの観点から、14基の中、9基について述べたいと思う。あとの4基は、年代が不明であるし、形状その他について、いろいろ難点があるので省略する。
当寺の板碑は次の一覧表の通りです。
NO
西暦
年号月日
主尊
偈文人名等
完欠
備考
1 1449 宝徳元65 阿弥陀如来 慶珎阿闍梨 63 16 弥陀三尊
2 1471 文明3・11・12 阿弥陀如来 妙西禅尼 30 14 下欠
3 1289 正応2・8 阿弥陀如来 65 26 下欠
4 1362 康安2・10 阿弥陀如来 44 14
5 1361 延文6・5・25 阿弥陀如来 55 23 上欠
6 1426 応永33・11・8 阿弥陀如来 逆修教実 41 15
7 1441 永享13・2・23 阿弥陀如来 本浄禅尼修逆 40 16 下欠
8 釈迦如来
阿弥陀如来
66 104 上下欠 連碑
9 1353 文和2・8・22 題目 有志者為 96 67 連碑
10 阿弥陀如来 22 19 破片
11 44 22 上欠
12 阿弥陀如来 50 25 下欠
13 釈迦如来 33 23 下欠

■板碑(1)

この板碑は、完形の弥陀三尊種子の板碑である。上部の三角形の山形もほぼ完全で、横の二条線も深く彫られている。
線刻の月輪の中に彫られた弥陀種子も、美しく力強い感じである。

種子をのせる蓮台もよい彫である。観音、勢至の二種子は、蓮台こそないが、大変よい彫りである。

種子の下右側に、「宝徳元年巳」の紀年銘があり、左側に、「六月五日」の月日がある。中央の「慶珎阿闍利」も読みやすい。枠線はない。周辺の欠け損じもなく、完全な形である。宝徳元年(1449)は、室町時代、足利義成の将軍の頃、後花園天皇の御代である。

 
 

■板碑(2)

この板碑「2」は、山形の右端が、少し欠け損しているが、横に彫られた二条線は、太くはっきりしている。線刻の月輪もよく、弥陀種子も、薬研彫りでよい。種子をのせる蓮台も形よく、彫りもよい。右端の、「文明三年」の紀年銘、左側の
「十一月十二日」の月日も読みやすい。「妙西禅尼」の法名もわかりよい。下部の根部が、少し欠けている。左側に、線刻の枠線が認められる。文明3年(1471)といえば、後土御門天皇の御代、足利義政将軍の頃、東山文化の花咲き匂う頃である。




■板碑(3)

弥陀一尊種子の板碑である。上部の山形には、欠け損じた所がない。線刻の二条線も明らかで、額部には、腐蝕がなく、種子の薬研彫も力強く感じられる。蓮座も彫りよくそして、中房が認められる。数多の花辨の彫りもよい。  紀年銘は、蓮台の下に、一行で、「正応二年八月日」と書かれ、年号は、草書体である。線刻の框線も、上下左右に認められる。根部の一部分右下が欠け損じているが、当区の最も古い板碑である。  正応2年8月日(1289)は、鎌倉時代、伏見天皇の御代である。

 
 

■板碑(4)

この板碑は、小形ながら完全な形を保っている。上部の山形は、少しも欠け損じがない。横の二条線も太めで、あざやかである。薬研彫りの弥陀種子も、力強く感じられて美しい。蓮台の彫りもよく、かすかながら中房も認められる。紀年銘は、右に「康安二年」左に「十月日」と、彫ってある。珍しく、その下に、花瓶がある。花瓶は、高さ4p程であり、胴には、二条の帯線が刻まれていて、頚部は太めで1p程である。中の蓮華は、3.5p、左の荷葉は、2.5p、右の荷葉は、2p程である。当区にある板碑の中で、花瓶のあるのは数少なく、まことに貴重な板碑である。  康安2年10月日(1362)である。康安2年9月23日は、改元されて貞治元年である。また、南朝年号では、正平17年である。南朝の後村上天皇、北朝の後光厳天皇の対立時代である。時の将軍、足利義詮は、反軍を追って東奔西走の時である。混乱の時代である。現代と異なって、情報機構の不備な当時では、改元の事実を知るよしもなく依然として、旧年号を用いている。世相の一端を如実にわかるような板碑である。

■板碑(5)

一尊弥陀種子の板碑である。上部の山形は、惜しくも欠け損じている。月輪の中には、薬研彫りの種子の一部がある。蓮台の一部の中房と思われるものも認められる。紀年銘は、左側に「延文六年」、花瓶をはさみて右側に、「五月廿五日」と彫られている。  花瓶は、高さ5p程である。胴には、二条の帯線が彫られてある。頸部は細目で、供花は、磨滅のためよくわからない。 線刻の框線は、右端下は、判明しないが、他はまことにはっきりしている。根部の右端が欠けているのと、上部の種子の部分が欠けているのが惜しく思われる。  延文6年といえば、1361年である。南朝年号の正平16年である。また、北朝年号では、延文6年3月29日は改元されて、康安元年である。北朝では、後光厳天皇の御代、南朝では、後村上天皇の御代である。そして、足利義詮が、父、尊氏の後をついで、二代将軍となった頃である。現代のように、情報機関の発達していない昔の事だから致し方ないとしても、約2月もすぎて、依然として、旧年号を用いて、武州の一角では板碑を造立している。これも当時の世相の一端と示すものと思われる。

 
 

■板碑(6)

小型の一尊種子弥陀板碑である。上部の山形は、完全な形に近い。横の二条線も太めではっきりしている。額部も何等の磨滅もなく、線刻の枠線も細めであるが、明らかである。  種子も、蓮台も彫りがよく、美しい。紀年銘は、右側に「応永参拾三年」、左側に「十一月八日」と彫られている。中央には、「逆修教実」の四字が彫られてある。恐らく、信仰に厚い人が、生前に供養して、極楽浄土を切に願ったのであろう。この板碑は、小型ながら完全な形で保存されている。  応永33年(1426)は、称光天皇の御代である。南朝、北朝和議なって、北朝年号の「明徳」と、南朝年号の「元中」の両年号が改元されて「応永」である。その時代の板碑である。