縁 起



■縁起と由来

中世、総武の地に勢力があった千葉常胤の一族に、夕顔姫と称せらるる一女性がいました。
千葉氏一族が、鎌倉幕府のひ護のもとに、勢力を次第に、総武の地に伸ばすようになって、夕顔姫は、晩年、居を武州本木の地にかまえた。そして、有髪の尼のような生活でありました。

居室には、いつしか懸仏がかけられ、念仏ざんまいにふけるのであった。
やがて、持仏堂を造り、朝夕、礼拝供養に勤めた。天寿を全うして、法名を、妙円とおくられた。

やがて、この持仏堂は、善男善女の信仰の場として、お堂に改築され、本寺の発祥のもととなった。そして、長い間、堂は、堂守にまもられて、世人信仰の場となった。

新編武蔵風土記稿によれば、「瑞応寺、阿修羅山と号す。明応7年(1498)の草創といへり。本尊、観音を安置せり。」とある。長い堂守の時代はすぎて、寺院として、ようやく完成され、千葉氏のひ護の元に寺院の機能を完全に発揮するようになったのを意味するものといわれている。


■この頃から、当寺は、法燈隆昌の途を辿り、七堂伽藍の備わった、
押しも押されぬ名刹として 知られるようになった。


当時の近くに、「大門前」と呼ばれる地名があったという。
当寺がかつて、偉容を誇った事実を示すものであろう。  
近世、北条早雲が、相模の小田原城を根拠地として、関八州の侵略を始め、子の氏綱、孫の氏康になり、次第に武州の東辺に及ぶや、千葉氏は、武運拙く、その配下に降りるや、千葉氏にゆかりのある本寺の鐘楼にあった名鐘を戦利品として、持ち去ることになった。

舟にのせられ、隅田川を下ることしばらくして、名鐘は、妙音を発して、うなりだし、それにつれて、龍神の怒にふれたのか、波風立ちさわぎしという。舟人、つわもの共は、事の意外と、奇異の感にうたれ、驚きさわぎて、鐘を沈めて逃げ去ったという。

世人之をきき、その所を称して、「鐘ヶ淵」という。明治の初年まで、水の澄んだ時は、水中、かすかに、その名鐘の姿を見ることができたという。  また、当地の「瀬田藤右衛門氏文書」によると、「当寺の境内除地2818坪」とある。かつての当寺の一端を知るにたると思う。

■月星の紋
また、当寺の鬼門除の神社は、中曽根神社である。そして、本寺鎮護の神である。
この社は、千葉氏尊信の社であるという。当寺は、千葉氏の家紋の「九曜星」 に関係ある 「月星の紋」を寺紋としている。

江戸時代になって、近くにある〔本木西町17-1〕の吉祥院の末寺として、法灯連綿、庶民信仰の場として栄えたが、不幸にも、昭和20年4月の戦災にあい、あまたの什宝珍器を失った。その後、現住職の努力によって、昔の姿によみがえりつつある。
  
※補記、中曽根神社
 
当社は、足立区本木町2-2176にあり、祭神は、大雷神、国常立命であり、天文3年(1523)の創立である。室町時代に、此の地の豪族、千葉勝胤が当地に、城をかまえ、城内に、千葉氏の崇敬厚い「妙見様」を、勧請した。千葉氏が衰え、廃城後も、郷人の尊信により維持せられてきたが、いろいろの事情によって、明治維新以後、神社の列に入らず、昭和7年8月、興野なる「雷社」を移転して、無格社に列した。

末社、御獄社は、拝殿に向かって、やや高地にある小社である。  大正13年頃、煉瓦製造のため、この高地を切崩して、現在のように平坦な地にしてしまったが、御獄社の所だけは老人識者の意見を入れて、わずかに、昔の城址のなごりをしのぶことができる。城の広さは、六町四方くらいで、明治初年頃までは、城のひときわ高い構の下を流るる堀を、堀下堀(外堀の意)といった。なお、当社の北側辺にかけて於局屋敷がいう所があった。