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仏教小史 Vo.1


インドの釈迦(しゃか)の創唱した世界宗教。キリスト教、イスラム教とともに世界3大宗教に数えられる。

根本となっているのは釈迦が菩提樹下で成道し、80歳で入滅するまで北インド各地で説いた教説にある。仏の教えという意味で「仏法」、仏となるための修行の意味を含めて「仏道」と呼ばれることもある。

釈迦の本意は自らが悟った真理を広く社会に開き、苦悩に沈む民衆を救うところにあった。当時インドで大きな勢力を誇っていたバラモンの哲学を打ち破り、カーストによる差別を認めない立場を貫き、人間の平等を訴えた。

「釈迦は人間の価値は現実の人間の存在と行為によってきまるものであるとし、真理を発見し、真理に基づく正しい生活を確立しようとした。したがって、仏教の最大の特色は、神と人との関係において宗教が成立するのではなく、人間自身に根ざし、人間自身の生き方を根本問題とするところにある」とする視点もある。

釈迦を中心として出家信者の集団が構成され、それに在家信者が加わり、釈迦の教団は次第に広がっていった。釈迦の死後、その教えは数度にわたる「経典結集(けつじゅう)」経て、三蔵(大蔵経)の形で膨大な経典としてまとめられた。

第2回経典結集の前後から(釈迦滅後100年ごろ)、戒律の解釈をめぐって仏教教団に分裂が起こり、上座部系統と大衆部系統に分かれた。戒律の規定に厳格な立場をとるグループと寛大な立場をとるグループの争いだった。根本二部分裂の時代である。

さらに、マウリヤ朝時代も分裂は続き、上座部が12、大衆部が6部の18(あるいは20)の分派に分かれた。これを枝末分裂という。上座部系統は次第に思弁哲学的傾向を強め、閉鎖的な僧院生活に閉じこもりがちで、小乗仏教として大衆部系統から排斥された。

大衆部系統は大乗仏教興起の運動を起こし、上座部系統の流れをくむ部派仏教の出家信者中心のいき方に対して、在家信者を中心とした民衆救済を目的とする活動を展開した。このころ「般若経(はんにゃきょう)」「華厳経(けごんきょう)」「維摩経(ゆいまきょう)」「法華経(ほけきょう)」「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」などの大乗経典も成立した。

2世紀末、南インドに現れた竜樹(ナーガ−ルジュナ)は空観を中心として仏教の体系化をはかった。「中論」「十二門論」「大智度論」などを著し、後の中国、日本の仏教に大きな影響を与え、「八宗の祖」と呼ばれている。

さらに、4〜5世紀に出た無著(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によってインドにおける大乗仏教は完成された。兄弟の開いた唯識派は、竜樹の開いた中観派とともに大乗仏教の2つの流れを形成したが、7世紀以後、仏教はヒンズー教、イスラム教などに押され、インドでは衰えた。

その後、仏教は世界各地に伝えられ、各地でそれぞれ独自の発展を遂げた。スリランカ、ミャンマーには上座部仏教、ジャワ、スマトラ、ボルネオなどには大乗仏教、カンボジアには大乗仏教のち上座部仏教、ベトナムには大乗仏教が伝わった。シルクロードの諸国では西域仏教が行われ、チベットではラマ教として発展した。

仏教が中国へ伝来したのは後漢の明帝の永平10年(67)とされるが、紀元前後にも西域諸国を通じて、すでに伝えられていたと見られる。天山南路、天山北路などのシルクロードを通って、仏教は中国に伝来したのである。

当初は一部の貴族や知識階級に広まり、大きな勢力となることはなかったが、後漢末から魏・西晋時代になると、インド、西域から来朝する僧も多くなり、経典の翻訳も行われ、次第に世間の注目を集めるようになった。

呉の支謙、西晋の竺法護ら優秀な漢訳者に加え、西域から鳩摩羅什(くまらじゅう)が入朝し、経典を数多く翻訳、中国独自の仏教の発展に大きく貢献した。法顕(ほっけん)、玄奘(げんじょう)などインドへの求法者も生まれた。

6世紀には達磨(だるま)によって禅宗が伝えられ、臨済宗、曹洞宗の2大派が生まれた。

隋代には智〇が「法華経」によって天台宗を開き、吉蔵が三論宗を大成した。唐代には浄土宗、法相宗、華厳宗、真言宗などが成立、仏教は黄金時代を迎えるが、会昌の法難(842年)を機として、次第に中国の仏教は衰退していった。