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平安仏教

平安仏教を代表するものとしては天台宗と真言宗がある。

天台宗
天台宗の開祖は、伝教大師・最澄(767〜822)で3ある。最澄は入唐して隋の天台智○の大成した天台教学を究め、さらに密教と禅と律の伝授も受けて帰朝し、806年、円(天台教学)・密・禅・戒の四宗を総合する天台法華経を開創した。

天台教学は法華経に基づくものであり、あらゆる人々は仏となる因(仏性)を有しているという一乗思想のほか、三諦円融の教え、一念三千の教えなど非常に高遠な思想を有している。と同時に、心を統一しつつ自己と存在の実相を観察する“止観”を中心とした実践行も重視し、教観双修を標榜する。

天台宗には、峰々を毎日歩きまわる回峰行、長い年月山に篭もる篭山行など極めて厳しい行が伝わっており、今にこれを修する人が絶えない。

なお、最澄は戒に関して特に大乗の立場での戒を主唱し、日本仏教における戒観の基礎を築いたことも忘れることはできない。

このほか日本の天台宗はもとより密教を含んでいたが、その後真言宗の影響を受けたり、円仁(794〜864)、円珍(814〜891)が出て更に密教化し、真言宗の東密に対し台密と呼ばれる密教を栄えさせた。

天台宗の総本山は比叡山延暦寺である。天台宗からの分派としては、円珍門下の余慶が三井の園城寺に拠ったところから始まる天台寺門宗、戒称二門(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えた慈摂大師真盛による天台真盛宗などがある。なお、戦前、四天王寺や鞍馬寺、浅草寺は天台宗に編入されていたが、戦後いずれも独立して一派を形成した。


真言宗
真言宗の開祖は弘法大師・空海(774〜835)である。空海は唐で恵果より真言密教を学び、ことごとく秘宝を伝授されて帰国し、真言宗を開いた。

823年には、嵯峨天皇から東寺を賜って皇城鎮護の道場とし、835年高野山で入定 (入寂)した。この間、布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力した。

密教というのは、歴史上の釈尊が説いたとされる顕教に対するもので、法身仏(いわば絶対者)である大日如来が、直接説いた教えという。生きとし生けるものは、宇宙の根源的な生命である大日如来の顕現であり、我々も三密行の実践により即身成仏することができると説く。そのほか具体的な行に阿字観などがあり、また諸尊の加護を求めて加持祈祷がしばしば修される。

曼陀羅は密教の悟りの世界=宇宙の大生命を象徴的に図画でもっと示したものであり、かつ現実世界がそのまま理想世界なること示すものである。また、高野山は、弘法大師・空海の入定の地であり、大師の救いを信じて南無大師遍照金剛と唱える大師信仰の中心となった。

この高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗は真言宗団の中でも最大の宗団である。また、真言宗は皇室と縁が深く、大覚寺、仁和寺等の門跡寺院が多くあり、それぞれ一派を形成している。12世紀には、覚鑁(1095〜1143)が出て密教と高野山の復興につとめた。覚鑁は金剛峯寺と大伝法院の座主を兼任するなどしたが、金剛峯寺勢力と折り合わず、高野山を離れて根来(和歌山県) に本拠を置いた。

その後、頼瑜(1226〜1304)が出て大伝法院を根来に移し、新義真言宗として独立した。根来寺が豊臣秀吉に焼かれると、専誉と玄宥の二人の能化は、それぞれ大和長谷寺、京都智積院に移り、現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基を据えた。


修験道
平安末には日本古来の山岳信仰が仏教、道教、シャーマニズム、神道などと融合して、修験道という一つの宗教体系を作り上げた。

中世期、大峰山では吉野・熊野を拠点として修業か行われ、熊野側では聖護院を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に当山派が形成された。

江戸時代には両派が認められていたが、明治政府により、明治5年、修験道は一宗としては廃止され、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。

現在は独立して本山修験宗、真言宗醍醐派、金峰山修験本宗、修験道などとなっている。


『宗教年鑑』より引用
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