真言宗豊山派円泉寺|世田谷太子堂

▼ 沿革 ▼

 

聖王山法明院円泉寺の草創は、遅くとも 南北朝時代 末期(~1392)のころには、太子堂ならびに小堂(円泉寺前身・円泉坊)が結ばれていたものと推察され、 文禄4年(1595)、 賢惠(けんけい)大和尚によって中興がなされました。円泉寺周辺の地域は、武蔵野の一角とはいえ無人の荒野ではなく、縄文・弥生時代から人々の生活が営まれていた地で、中世のころには、相当な生産力のある素朴な文化をもつ地域でした。 慶長年間に入ると円泉寺周辺の地域は、江戸市中への蔬采の供給地として、重要な役割を果たすようになり、太子堂村の経済も次第に安定し、これに伴い円泉寺境内も本堂・太子堂が建ち並び、次第に寺容が整えられていきました。

   

寛文12年(1672)庚申供養塔が造立されましたが、(江戸時代における庚申信仰は、便宜上前期、中期、後期に分けられます。)円泉寺の供養塔は、前期に入る貴重なもので、このことは、円泉寺が周辺地域における庚申信仰の中心となっていたことを如実に物語っています。

享保年間に行われた「享保の大改革」は、農民への圧迫が激しくなり、そこに追い討ちをかけるように「享保の大飢饉」が襲いかかり、多数の餓死者が続出するといった 極度な世情不安の中にあって、法灯を高く掲げ寺運隆昌に尽力したのが周明大和尚でした。 江戸文化 が最も花開いた文化・文政のころには、土地の人々との結びつきが一層固まり、寺運はますます隆昌しました。

安政4年 (1857)不幸にも災禍に罹り諸堂宇を焼失、安政7年 には、檀信徒家の信施によって、本堂、太子堂、庫裡が再建されましたが、かつて の豪壮な堂宇とは程遠く、明治の神仏分離令、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動などによって荒廃する時期もありましたが、英尊大和尚の入山に伴い、檀家が結集して寺門を支えつづけ、その後は、幸いにも太平洋戦争の空襲禍を免れ、この混乱の時期においても、宗祖弘法大師の教えの下に法灯を掲げ、檀信徒の厚い信施と奉仕行により、 昭和26年「聖徳太子1330年奉讃記念」として太子堂廻廊大改修。昭和39年本堂大修復並びに墓地塀の整備。昭和44年太子堂屋根大改修、平成に入り太子会館(新築)と太子堂の移転、平成8年太子会館別館の建設と本堂改修等順次事業を進め、開創以来いかなる時にも法灯をともしつづけてきた円泉寺は、 檀信徒の「心の寄る辺」として今日にいたっています。また、円泉寺は 玉川八十八ヶ所霊場巡拝の第51番霊場となっています。

 

[玉川八十八ヶ所]
多摩川(玉川)に沿った地域の寺院を辿る巡拝路で、寺々を宗派の別なく巡拝して歩く、という趣旨のもとに構成されたものです。昭和期に入って川崎大師平間寺を一番寺として、大田区の宝轤院までの弘法大師ゆかりの旧刹八十八ヶ所の巡拝路に構成されました。


 

▼ 寺宝 ▼

 

不動明王

 

圓泉寺の不動明王は、像高49.5糎。寄木造で、江戸時代の作と推察されます。 像容は、頂蓮をいただき左肩に弁髪をたらした忿怒形で、猛炎を背負い右手に 利剣、左手に羂索を持ち、左足を踏み出して岩座の上に立っておられます。
脇侍として矜羯羅・制吁迦の二童子を従えた、いわゆる三尊形式の尊像です。

十三仏(画幅)

 仏教では、人間は三界と六道に生死を繰り返す(輪廻転生)と考えられ 死者は冥界(仏の世界)で順次十人の王の裁判を受け、 ゆくべき世界が定まるとされています。
 やがて十王には本地が定められ、 十三仏が成立して人々の救済にあたるとされるようになりました。

聖観音菩薩

 圓泉寺の観音像は、阿弥陀如来の化仏をいただく宝冠をかむり、 身に条帛・裳をまとい、天衣をつけ、胸飾・腕輪・瓔珞などで身を飾り、 結跏趺座して蓮華座に座っておられます。
 像高36.2糎。寄木造で、江戸時代の作と推定されます。

六地蔵尊

 六地蔵は、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のどこにいても救済の手を差し伸べてくださる地蔵尊です。 圓泉寺の六地蔵尊は、寛政11年11月に造立されたもので、 墓地を入っ た左手に安置されています。

子育延命地蔵尊

 寛政3年の造立で、縁日本尊として広く庶民の信仰を集めていました。 昭和43年5月21日に三軒茶屋地区から圓泉寺の境内に遷座され、 深い信仰が寄せられ続けています。 玉川六地蔵の第四  番の地蔵尊です。

庚申供養塔

 山門右脇の大欅の根元の洞に、二基の板碑型庚申塔が安置されています。 もとは門前に安置されていたものを、大欅を伐ったのちに移したものです。


十一面観音像

観音菩薩像

弘法大師修行像

聖徳太子立石碑


 

▼ 年譜 ▼

 

南北朝時代 (1332~92)
おそくも末期頃、太子堂開創し、別当として圓泉坊(圓泉寺)が草創されたと推察される。 弘法大師草創説あり。

天正18年 (1590)
後北条氏滅ぶ。徳川家康、江戸へ入部す。

文録元年 (1592)
太子堂村(五十四石余)、山本与次右衛門の知行地となる。

文録4年 (1595)
賢惠大和尚、当山を中興し聖王山法明院圓泉寺と号す。

慶長8年 (1603)
家康、江戸幕府を開く。

慶長16年 (1611)
中興開山・賢惠大和尚遷化す。

元和元年 (1615)
幕府、全国寺院の本末関係を確立。当山、中野宝仙寺の末となる。

寛永17年 (1604)
寺請制度が確立。

寛文12年 (1672)
庚申供養塔造立。翌年にも造立。この頃、周辺地域の庚申信仰が盛んとなる。

元禄年中 (1688)
庶民の間に寺社詣でが盛んとなる。当山への参詣人後を絶たず。

享保元年 (1716)
八代将軍・吉宗 「享保の大改革」を行う。

享保13年 (1728)
第九世・周明法印、寺格を進め法流を相続し、次第に檀徒家が増える。周明法印を当山中興とす。

寛政11年 (1799)
11月、六地蔵尊を造立。

安政4年 (1857)
1月8日、出火により堂宇、古器、古文書等悉く焼失。

安政7年 (1806)
本堂再建。

慶応4年 (1868)
江戸幕府崩壊。

明治元年
明治新政府樹立。神仏分離令が公布され、当山も八幡神社の別当職を解かれる。

明治4年 (1871)
当山に太子堂郷学所を開設。世田谷教育界の先達・宮野芟平を迎え、子弟の教育を始む。

明治6年 (1873)
新学制がひかれ、太子堂郷学所が荏原小学校(現・若林小学校の前身)となる。

明治28年 (1895)
宮野芟平歿。70歳。当山境内に「頌徳碑」建立される。

明治32年 (1899)
2月本堂落慶(現本堂)。聖徳太子曼荼羅図成る。

大正15年 (1926)
本堂大改修。

昭和6年 (1931)
5月聖徳太子碑建立。この頃、太子講や縁日等で当山賑わう。

昭和11年 (1936)
庫裡改修。

昭和23年 (1948)
境内整地を行う。「聖徳太子節分会」開始。

昭和26年 (1951)
太子堂廻廊改修。

昭和33年 (1958)
11月境内に聖徳太子銅像(加瀬朝香作)が安置。

昭和39年 (1964)
本堂修繕。

昭和43年 (1968)
5月子育地蔵尊を当山に遷座。

昭和44年 (1969)
太子堂屋根改修。

昭和49年 (1974)
9月18日無縁塔造立。

昭和60年 (1985)
弘法大師千百五十年御遠忌記念、弘法大師修行像建立。

 

五・六・七世の住職の歴代数は推定である。