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続・質問帳バックナンバー


●質問
亡くなってから一周忌(いっしゅうき)、三回(さんかい)忌、七回忌というように年回法要を勤めますが、それぞれの意味合いは違うのでしょうか。
●答え
  とくに決まりが定められているわけではなく、室町時代からの俗信(ぞくしん)だといわれていますが、亡くなった当日も数えて七日目の初七日(しょなぬか)から、七七日(しちしちにち)(四十九日(しじゅうくにち))までの七日ごとの七回の法要に、百箇日(ひゃっかにち)、一周忌、三回忌(満二年目。数え年の数え方。以下も同じ)、七回忌、十三回忌、三十三回忌の六回を加えて、「十三仏事(じゅうさんぶつじ)」といいます。
  さて、それぞれの法要の意味ですが、亡くなられた方を想う気持ちはもちろんのこと、これを遺族の心のケアという観点(かんてん)から見ると、実にうまく考えられたシステムだと気づかされます。悲しみに打ちひしがれた四十九日までの七日ごとの法要、少し心の平静(へいせい)を取り戻した百箇日、そして気持ちの上ではあっという間にやってくる初めての祥月命日(しょうつきめいにち)一周忌、悲しみも新たな三回忌、ややうとくなりがちな故人への思いを新たにする七回忌、十二支(じゅうにし)が一巡(ひとめぐ)りする十三回忌、家門(かもん)の栄えが故人のおまもりによることを感謝(かんしゃ)する三十三回忌というように、各法要は遺(のこ)された人々にとっても、心を癒(いや)し、さらには自分の平生(へいぜい)の修養(しゅうよう)の糧(かて)とするように組み立てられているのです。
  法要は、故人の記念日としてばかりでなく、自分自身を見つめ直す日でもあるのです。

●質問
お墓に家紋(かもん)を入れると祟(たた)りがあるという人があります。すでに彫(ほ)ってある家紋を削(けず)らなければいけませんか。
●答え
  お墓に家紋を彫ることを推奨(すいしょう)しない宗派もあるようですし、地方によっては、最初からその習慣(しゅうかん)がないところもありますので一概(いちがい)には言えませんが、すでに入っているのであれば、わざわざそれを削ることはないでしょう。
 現在の家紋の元になったさまざまな文様(もんよう)の大半は、六世紀の仏教伝来の頃に大陸から伝えられ、時代と共に抽象化(ちゅうしょうか)され、戦国時代を経(へ)て、それぞれの武将(ぶしょう)がその家を表(あらわ)す家紋として定着させました。さらに江戸時代には一般の人々も多くの家紋を創作し、現在その数は二万種類以上にもおよぶといわれています。
 明治以降、西洋化の流れのなかで家紋は衰退(すいたい)していきますが、逆に近年になって、そのデザインの美しさが再認識されるようになりました。そういう意味では、お墓に家紋を掘り込むことが一般化した歴史も、それほど古いことではないようです。
 現代は何でも個人主義がよしとされ、自己中心的な風潮(ふうちょう)が幅(はば)をきかせています。家柄(いえがら)が権力に結びつく封建(ほうけん)時代にもどってはいけませんが、墓石に彫られた家紋を話題にすることで、家族の会話が弾(はず)み、亡き人、ご先祖方を思い出すよすがとなるならば、家紋も役に立ったといえるのではないでしょうか。

●質問
息子に先立たれ、遺骨(いこつ)は離婚した前夫の家のお墓に埋葬(まいそう)されてしまいました。お参りしづらいのですが、どうしたらよいでしょう。
●答え
  自分のお腹を痛め、手塩(てしお)に掛けて育てられたご子息(しそく)に先立たれたお悲しみは察するに余りあり、そのお墓にお参りなさりたいというのも、きわめて自然な感情だと思います。
  お尋(たず)ねからだけでは具体的なことは、分かりませんが、一つの判断基準(はんだんきじゅん)は、どうすることが亡き方の喜ばれることなのか、ということです。
  ケース・バイ・ケースですが、もし「権利」だけをふりかざしてお参りを強行したり、「分骨(ぶんこつ)」を要求したりしたがために、あなたが窮地(きゅうち)に立たされるようなことになれば、それはご子息の望まれることではないはずです。あわてずに問題を一つひとつ解決してからでも、息子さんはきっと待っていてくださるでしょう。
  平成十三年度の『国民生活白書(こくみんせいかつはくしょ)』によれば、戦後長期にわたって横ばいだった離婚率が近年急上昇し、結婚したばかりの若いカップルのいわゆる「成田(なりた)離婚」、二十年以上連れ添った夫婦の「熟年(じゅくねん)離婚」などの増加によって、平成十二年には二十六万件、ほぼ五十組に一組に達したということです。
  この傾向が続く限り、このような悩みも増えていくのでしょうか。
  お参りしたいというあなたのお気持ちは、すでに息子さんに届いていることと思います。

●質問
仏教では「成人式」にあたる行事がありますか。
●答え
 選挙権(せんきょけん)を得る年齢を、現在の二十歳(はたち)から十八歳に引きさげようという議論(ぎろん)があるようですが、近年、毎年のようにくり返される「成人式」での破廉恥(はれんち)な騒(さわ)ぎを見ると、とてももろ手をあげて賛成(さんせい)というわけにはいきません。
 もちろん、あれは一部の不心得者(ふここえもの)の仕業(しわざ)で、大方(おおかた)の青年たちは厳粛(げんしゅく)な気持ちで、責任ある大人、社会人への「通過儀礼(つうかぎれい)」の日を迎えているのでしょうが、「成人式」のもつ意味合いも年々変化しているように思われます。
 決まった年齢で受けるものではなく宗派(しゅうは)によっても違いますが、仏教では「受戒会(じゅかいえ)」や「帰敬式(ききょうしき)」「得度式(とくどしき)」といった「仏教入門式」が、これにあたるといえるかもしれません。
 これらは「諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょうぶっきょう)(もろもろの悪をなさず、あらゆる善を行い、みずからその心を清くする、これが諸仏の教えである)」という考えを基本として執(と)り行われ、仏教徒としての生活規範(きはん)などが示され、それを守る誓いを立てる儀式です。
 二十歳を迎え、ただ正々堂々とお酒が飲めるようになった、煙草が吸えるようになったなどと騒ぎ立てるのではなく、自分はどれだけ多くの愛情に支えられて育ってきたのか、これから一人の人間として自分は何をしていくのか、「来(こ)し方行(かたゆく)く末(すえ)」をしっかりと見つめる日にしてもらいたいものです。

●質問
お賽銭(さいせん)箱に「喜捨(きしゃ)」と書いてあるのはどういう意味ですか。
●答え
 「貴社(きしゃ)の記者(きしゃ)が汽車(きしゃ)で帰社(きしゃ)した」は同音異義語(どうおんいぎご)-読み方は同じで意昧が違う言葉-の代表選手ですが、お尋ねの「喜捨」も「きしゃ」と読みます。せっかく仏さまにお賽銭をお供(そな)えするのに「喜(よろこ)びを捨(す)てる」とはどういうことなのでしょうか。
 まず「喜」は「喜んで」「自分から、積極的(せっきょくてき)に」という意味です。書店には、上手に片付けることができない人のために、「捨てる技術」を解説した本が何種類も並び、ベストセラーにもなっていますが、ここでいう「捨」はただ単に「捨てる」ことではなく「施(ほどこ)しをする」ということです。
 仏教ではこの「施しをする」こと、「布施行(ふせぎょう)」を大変重んじています。そして本来それは「見返(みかえ)りを求めない」ものでなければなりません。
 お賽銭に「相場(そうぱ)」があるのかどうか分かりませんが、「ご縁(えん)」があるようにと「五円」、少し張り込んでも「始終(しじゅう)ご縁」があるようにと「四十五円」。そのあたりが「平均」ではないでしようか。
 ところが、この「ご縁」という言葉が表しているように、私たちはわずかなお賽銭で、「ご利益(りやく)」つまりそれに見合わない「特別な効果」を期待してしまいがちです。
 そんな卑(いや)しい心を戒(いまし)めるのが「喜こんで捨ててしまいなさい」「布施行をお積(つ)みなさい」という「喜捨」の言葉なのです。「捨てる枝術」は昔から難しいもののようですね。

●質問
「七夕(たなばた)」は「お盆(ぼん)」と関係があるのですか。
●答え
 「七夕」というと、牽牛(けんぎゅう)と織女(しゅくじょ)の二つの星が、天の川をはさんで年に一度だけ逢(あ)うという「星祭(ほしまつ)り」の話が、まず最初に頭に浮かぶことと思います。また子供のころ「五色(ごしき)の短冊(たんざく)」にいろいろな願い事を書いて、「笹竹飾(ささたけかざ)り」につるした記憶のある方も多いことでしょう。
 これは奈良時代に中国から伝わった説話や、この二つの星に書(しょ)や裁縫(さいほう)の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん)」という慣習に、日本古来の「棚機津女(たなばたつめ)」の信仰が合わさったものと考えられており、もともとは「お盆」と直接関係のある行事ではなかったようです。
 しかし「七日盆(なぬかぼん)」といって、「七夕」の日を「お盆」の始まりと考える地方も多く見られます。そうしたところでは、7月7日または月遅れの8月7日、旧暦の7月7日になると、お墓、墓地から自宅までの道、お仏壇などを掃除して、「お盆」の準備を始めます。
 国立天文台(こくりつてんもんだい)では「二十四節気(にじゅうしせっき)」の中の「処暑(しょしょ)」より前で、「処暑」に最も近い「朔(さく)(新月)に日を基準に、その日から数えて7日目を「伝統的(でんとうてき)七夕」の日と定めています(今年は8月22日の日曜日。)
 ネオンに照らされた都会では、夜空に星を探すことも難しく、また日常生活の中で、天の川を見上げることなどほとんどなくなってしまった私たちですが、せめて「七夕」の日には無駄(むだ)な灯(あか)りを消して・亡き方たちに思いをはせたいものです。

●質問
法要の後のお食事を遠慮したら、「ご供養ですから是非に」といわれました。
どういうことですか。
●答え
仏教では、自分の行った善(よ)い行いを、自分のためでなく、他人(ひと)のためにも振り向けるよう説いています。仏さまや亡き人にお供(そな)え物(もの)をして法要を営(いとな)むことなどを「供養」といいますが、いまでは法要の後で食事をふるまうことを「供養の席」と呼ぶことが多くなりました。ときどき「直会(なおらい)」という人がありますが、これは神道(しんとう)で神事(しんじ)が終わった後の酒宴(しゅえん)をいう言い方で、仏教の呼び方ではありません。
心持ちからいえば「もし、あの人が健在(けんざい)なら、お集まりのなつかしい皆さんにお食事を差し上げ、一緒に時を過ごしたいと思うことでしょう。
でも、残念ながらそれはかないません。なくなったあの人の気持ちにも添(そ)うことなのですから、どうぞ召し上がっていってください」というほどの意味でしょうか。
法要の主催者(しゅさいしゃ)を「施主(せしゅ)」といいます。これは単に「お布施(ふせ)」を出す人という意味だけではありません。「施主」の「施」は、仏教の基本的な修行法(しゅぎょうほう)の一つである「布施行(ぎょう)」の「施」です。法要の後の食事の提供は、「施主」が「施す」という善い行いをし、それを仏さまや亡き方のために振り分けていると考えれば、「ご供養ですから」という言い方も自(おの)ずと理解されるでしょう。

●質問
仏教ではお正月の過ごし方に決まりがありますか。
●答え
お正月というと、気持ちも新たに「初詣(はつもうで)」からという方が多いことでしょう。
この頃はあまり言われなくなりましたが、以前は「除夜(じょや)詣」といって大晦日(おおみそか)にお参りし、一旦(いったん)家に帰り、改めて出直(でなお)して「元旦(がんたん)詣」をする風習もありました。
現在のように、年末恒例のテレビ番組を見終わったとたんにどっと繰(く)り出し、お寺の境内(けいだい)で「除夜の鐘」を聞き、そのままその場で新年を迎えるという、「略式(りゃくしき)」ともいえる形になったのは、そう古いことではありません。
さて、「初詣」は「初参り」ともいいますが、其の皆さんがお参りされるお寺で、毎年お正月に行われる法会(ほうえ)を「修正会(しゅしょうえ)」といいます。宗派によって勤(つと)め方はいろいろですが、おおむね、前年に犯(おか)した罪を悔(く)い改め、その年に天災(てんさい)や戦災(せんさい)が起こらぬよう、ひとびとが安心して暮らせるようにと祈る内容になっています。
その起源(きげん)は、8世紀半ば聖武(しょうむ)天皇が諸国の国分寺(こくぶんじ)で「悔過法(けかほう)」を行わせたことにまでさかのぼるといいます。
「懺過法」は読んで字のごとく「過(あやま)ちを悔(く)いるための法会」のことですから、仏教徒のスタートはまず「自己反省(じこはんせい)」からということになるでしょう。
景気回復から志望校合格まで、みなお正月には少なからず切実(せつじつ)な願いを胸に抱(いだ)いてお参りすることでしょう。
(みずか)らを省(かえり)みて、年の初めにあなたは何を心に誓(ちか)うのでしょうか。

●質問
「命日(めいにち)」と「祥月(しょうつき)命日」の違いを教えて下さい。
●答え
「命日」とは、故人の「命が終わりを迎えた日」に当たる毎月、毎年の「その日」のことをいいます。つまり、9月23日に亡くなった方の、次の「命日」は、翌月10月の23日ということになります。
これに対して「祥月命日」は、亡くなってから丸一年目、「一周忌」以降の「月も日も同じ日」をいいます。「まさしく当たっている忌日(きにち)」ということから、「正忌(しょうき)」「正当(しょうとう)」「正命日(しょうめいにち)」などともいいます。また「祥月」を「正月(しょうつき)」と書くこともありますが、これは「正忌月(しょうきげつ)」を略した言い方です。
「祥月」の「祥」は、もともとは「喪中(もちゅう)」に着ていた「凶服(きょうふく)」を脱いで、「吉服(きちふく)」 に着替えるという意味で、儒教(じゅきょう)で、親が亡くなって13ヶ月目のお祭りを「小祥(しょうしょう)」、25ヶ月目のお祭りを「大祥(だいしょう)」と称していたのを、仏教が散りいれたものだといわれています。この頃はあまり使われなくなったようですが、以前は「一周忌」のことを「小祥忌」、まる2年目の「三回忌(さんかいき)」のことを「大祥忌」と呼んでいました。
今でも「月参(つきまい)り」が欠かさず行われている地方や、毎朝夕のお仏壇へのお参りに、日めくりの「過去帳(かこちょう)」を使っておられるお宅を除けば、1年に一度の「祥月命日」はともかくとして、毎月の「命日」は、ついついないがしろになりがちです。
ご先祖さまへのご無沙汰(ぶさた)は禁物(きんもつ)。
「命日」も大切にしたいものです。

●質問
「お盆(ぼん)」は日本だけの風習(ふうしゅう)ですか。
●答え
両手にもてるだけのおみやけを抱(かか)え、長時間すし詰(づ)めの帰省列車(きせいれっしゃ)に揺(ゆ)られ、くたくたになって故郷の実家にたどり着く。そこで「兄(あん)ちゃん、お帰りっ!」といって転(ころ)がるように飛び出してくる弟の声を聞いたとたん、仕事でのいやなことも、何もかもが洗い流されて、「あーっ、がんばってきてよかった」と思える、としみじみ語ってくれたのは、ある個人タクシーの運転手さんでしたが、「お盆」の頃には、日本中のあちこちで見られる光景でしょう。
「お盆」は、もともとは『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』というお経にある、お釈迦さまの弟子の日連尊者(もくれんそんじゃ)が、死後餓鬼道(がきどう)に堕ちてしまった母親を、雨期の修行を終えた僧たちとともに救い出す、という孝行説話(こうこうせつわ)に由来(ゆらい)し、7世紀の初頭にはわが国でも行われていたといわれています。
仏教の伝来(でんらい)とともに中国・朝鮮経由で伝えられた行事であり、当初は宮中(きゅうちゅう)での年中行事でしたが、仏教が民衆に広まるにつれ、日本古来の祖先崇拝(すうはい)の考えと結びつき、生活に溶け込んだものになっていきました。
そういった意味では、「お盆」は輸入された行事でありながら、日本人の祖先を想(おも)うやさしい気持ちが、大事に大事に育ててきた行事といえるでしょう。
ご先祖さまを慕(した)い、亡(な)き人を偲(しの)ぶことで、癒(いや)されているのは、実は生きているわたしたちの方なのかもしれませんね。

●質問
「十三仏(じゅうさんぶつ)」とはどんな仏さまですか。
●答え
「十三仏」は、亡くなって初七日から、三十三回忌までの忌日年回に配当された仏さまや菩薩さまのことです。「十三仏曼陀羅」といって、「十三仏」すべてを一幅(いっぷく)の絵にし、法事のときなどにかける地方もありますが、実はその拠(よ)りどころはよく分からず、室町時代に始まった民間信仰だともいわれています。
初七日 不動明王(ふどうみょうおう)
二十七日 釈迦如来(しゃかにょらい)
三十七日 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
四十七日 普賢菩薩(ふげんぼさつ)
五十七日 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
六十七日 弥勒菩薩(みろくぼさつ)
七十七日 薬師如来(やくしにょらい)
百箇日 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
一周忌 勢至菩薩(せいしぼさつ)
三回忌 阿弥陀如来(あみだにょらい)
七回忌 如来(あしゅくにょらい)
十三回忌 大日如来(だいにちにょらい)
三十三回忌 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
と決められており、これを地獄の「十王」に当てはめた説もありますが、あまり道理にかなったものとはいえません。
釈迦三尊、阿弥陀三尊をはじめ、どの仏さまも菩薩さまも、それぞれに信仰されていた「人気者」ばかりで、さしづめ「オールスター」大行進といったところでしょう。
「十三仏」は、いろいろな仏さまにお願いしておけば、亡くなった方が、どこかで誰かに救われるだろう、という遺(のこ)された人々の素朴な願いが出発点だったものではないでしょうか。それだけに、きちんとした信仰心といったものには裏付けられていないように思われます。
ある意味では、三十三回忌までは怠りなく勤めなさいという戒めと受け取るべきものでしょう。

●質問
跡継ぎがないと墓地をゆずってもらえないと伺いました。本当ですか。
●答え
お寺に限らず、公的な霊園でも、いわゆる「無縁墓(誰もお参りする人のないお墓)」を作らないようにと心がけているのが基本的な考え方にあるのは事実で、実際墓地の規定で、継承者(配偶者や血縁関係にある親族)がいないと墓地を分譲しない、と定めている自治体も少なくありません。
しかし、そうなると、先祖代々の墓地があって、そこに入れる場合はいいのですが、新たに墓地(あるいは墓地の「永代使用権」)を求めようとしても、夫婦だけで子供のない人、たとえ子供がいても不仲で後を見てくれそうもない人、独身を通した人、離婚して一人きりになった人など、亡くなってもどこにも入るお墓がない、という人も大勢出てきてしまうということになります。
最近、本山などでお骨を一定期間は単独でお預かりし、その後一つの「供養塔」に合葬(がっそう)するところや、自治体でも大きな「合祀(ごうし)墓」を作るケースなどが出てきましたが、まだまだ現実のハードルは高いようです。
一般の寺院でも、「永代供養料」を払い込めばどうにかなるということではなくなってきています。
この世に絶対というものはなかなかありませんが、いつか死を迎えるということは避けて通れないことです。新年早々縁起が悪いなどと思わず、一度真剣に、また元気なうちにこそ考えておくことなのかもしれません。

●質問
なぜ「お彼岸」は一週間あるのですか。
●答え
人間も含め地球上のすべての生き物が暮らしていく上で、第一に基本になるのは、昼夜が交代する一日という単位です。それを基準に月の満ち欠けや太陽の運行など、天文学的な計算の上に暦というものがなりたってきました。
「お彼岸」は春秋に行われていた日本古来の祖先崇拝(そせんすうはい)行事が仏教徒結びついたものと考えられています。『日本書紀』によれば、わが国に暦がもたらされたのは、その仏教が伝来したのと同じ、六世紀の中頃といわれていますが、それがどんな暦であったかは分かっていません。ちなみに現在使われているグレゴリオ暦が明治政府によって正式に採用されたのは、明治31(1898)年のことですから、まだわずか100年ちょっとの歴史しかないのです。
ですから、「週」という単位での考え方は「お彼岸」とは直接には関係ないことなのかのしれません。
ただ、人工衛星もコンピュータもないときに、昼夜の時間が等しくなる「お中日」を正確に把握し、その日を中心に前後3日ずつに布施(施す)・持戒(慎む)・忍辱(忍ぶ)・精進(励む)・禅定(心を静める)・智慧(学ぶ)という6つの修行を行う修養週間を設定した、昔の人々の智慧には驚かされます。
カレンダーにしばられ、自然の大きな流れを感ずることが出来なくなっているのは、案外と現代人の方なのではないでしょうか。

●質問
お仏壇のお灯明を息で吹き消してはいけないといわれました。なぜですか。
●答え
数年前、海外支援事業で、ある国の、それまで電灯のなかった小学校に、日本国内の基準にあわせて照明設備を整えたところ、現地の子供たちはあまりの明るさに、目を開けて物を見ることができなかったというニュースが報じられたことがありました。
今日の日本に暮らす私たちは、夜でも人工の光に照らされる生活に慣れ、ロウソクを明るいとは感じなくなっています。しかし、今のような明かりのなかった時代、人々のお灯明に対する思い入れは、現代とは大きく違っていたはずです。
人間の目は光があって初めて、物の存在、形を認識することができます。真の闇を知る人々にとって、ロウソクであれ、菜種油であれ、お仏壇にささげたお灯明は、どれだけ有難く感じられたことでしょう。仏教では「法灯明(ほうとうみょう)」という言葉もあるように、灯明は仏さまの教えそのものを指すことさえあるのです。
最近テレビでは、口臭除去剤のコマーシャルが盛んに流されています。大切な人や物に、食事の臭いのする息を吹きかけることは、してはならないことなのです。
仏具店には小さな団扇(うちわ)、上からかぶせるもの、芯をつまむものなどいろいろなタイプのロウソク消しが用意されています。是非それらをご用意下さい。一度部屋の電灯を消し、お灯明の火の光のあたたかさを実感してみましょう。

●質問
「花まつり」のお釈迦様のお姿は何を表しているのですか。
●答え
一口に「仏像」といっても、立っておられるものあれば、座っておられるものあります。手の形も、何か物を持っておられたり、指で輪を作られたりといろいろです。この手や指の形を「印を結ぶ」といって、それぞれに意味するところが違うのですが、たいていの場合、手は胸からお腹の前あたりにありますね。ところが、「花まつり」のときに「花御堂」の中に立っておられるお釈迦様のお像は、右手を上に高く挙げ左手は下をまっすぐに指して、まるで体操でもしていらっしゃるようなお姿です。
ご存知のように「花まつり」は仏教を開いたお釈迦様の、お誕生日をお祝いするおまつりです。ですから、このお姿は生まれたばかりのお釈迦様を表しているのです。では、なぜこのような形をしているのでしょうか。4月8日、花咲き匂うルンビ二の花園でお生まれになったお釈迦様は、すぐに「天上天下唯我独尊」(この世の中で最もすぐれた者となって、世の人々すべてを救います)と誓われた、と伝えられています。つまり、あのお姿は「あらゆる世界の人々のために」というお釈迦様の固い決意を表したポーズなのです。「花まつり」はみなさんがそれぞれ心の中に「誓いの花」を咲かせるよい機会でもあります。草木萌え出ずる春。心身をリフレッシュして、新しい自分を誕生させましょう。

●質問
「ご利益」について教えてください。
●答え
物を売ったり、サービスや情報を提供したり、あるいは資金を出資したりした「見返り」として手に入れるのが「利益」とするならば、あたなの信心に「無償で授かる」のが「ご利益」といえるでしょう。
「いやいや、私はちゃんとお賽銭を上げました」という方があるかもしれませんが、たとえそれが「始終ご縁」がありますようにという語呂合わせからの「四十五円」ではないにしても、あなたのあずかろうとする「ご利益」とはつり合っていないはずです。
毎年の大晦日やお正月、何百万人という老若男女が初詣に繰り出します。寒い中を何時間も行列しなければ本堂にお参りできないと知りながら、それでもお参りをする人たちは、いったい何を願っているのでしょうか。「一年の計は元旦にあり」と手を合わせた、あなたがお願いされたことは何でしょうか。一年間の家族の健康、立身出世、志望校合格、交通安全など、実はどれもお金では手に入れることのできないものばかりだったのではないでしょうか。
「縁により、信のありなしによりて利生はあり」といって、「願う」という種蒔きや、「信ずる」という水やりをしなければ、「ご利益」の花は咲かず、その果実を手にすることはできないといわれます。つまり「ご利益」にあずかれるかどうかのポイントは、本人の姿勢にあるというわけです。
十人いれば十人なりの願いがあるでしょう。自分の「利益」だけを追求するのが「我利我利」。そうならないように心がけてみると、いままでとは違った「ご利益」にあふれた生活が得られるかもしれませんね。


●質問
お彼岸は修行する期間だと聞きました。本当ですか?
●答え
お彼岸のお中日、朝7時になるとお寺の門が開くのを待ちかねたように、ほうきとバケツ、雑巾を手にして、若いときお世話になった会社の社長さんのお墓に向かわれる中年の男性があります。
汗だくになりながら草取りをし、次に裸足になってピカピカになるまで墓石を磨き上げ、最後は向こう三軒両隣のお墓の掃き掃除をして、それからようやくお参りとなります。
以前「偉いですねー」とお声をかけたら、「いやー、単なる自己満足ですよ。恩返しとは名ばかりで、自分の修行だと思ってやっているんですから」と謙遜(けんそん)されていましたが、実はここに本来お彼岸の持っている意味がいくつも入っています。
秋のお彼岸のお中日・秋分の日は「祖先を敬(うやま)い亡くなった人々を偲ぶ日」と規定されていますが、お彼岸は、そればかりでなく六波羅密(ろくはらみつ)といって、菩薩(いずれは仏さまになって、人々を救おうと考える人)の修行、すなわち、布施(施す)・持戒(慎む)・忍辱(忍ぶ)・精進(励む)・禅定(心身を静める)・知慧(学ぶ)という六つの修行を行う修養期間とされています。
お彼岸は、迷いの世界であるこちらの岸(此岸しがん)に対して、川をはさんだ悟りの世界、向こう岸を表す言葉です。同じお墓参りでも、ただ手を合わせるだけでなく、彼岸への橋を架ける心掛けを持ったなら、自分自身が磨かれることでしょう。

●質問
お中元はお盆の行事と関係があるのですか。
●答え
「中元」というと、お盆の行事のように考えられがちですが、もともとは中国の道教(どうきょう)の祭日「三元(さんげん)」から来た言葉で、仏教とは関係ありませんでした。
道教では一月、七月、十月の各十五日を「上元(じょうげん)」「中元(ちゅうげん)」「下元(かげん)」と呼び、盛大な火祭りを行って、両親や目上の人に魚を贈るという週間がありました。
「元」は「はじめ」を表し、この日から心機一転、新たなスタートを切るという意味合いが強かったようです。 さて、わが国でも、古くはお盆に「生盆(いきぼん)」といって、両親の健康を祝い、魚(主に鯖)を贈るということが行われていました。これを「生御霊(いきみたま)」といい、ともに7月15日ということから「中元」と結びついたと考えられています。
贈られるのが魚であるのも不思議な符合点ですが、鯖が使われるのは、仏教でご飯を生飯(さば)ということに由来したものでしょう。 「中元商戦」という言葉もありますが、お盆の15日を過ぎたら「書中お見舞」、立秋を過ぎたら「残暑お見舞」とするというようなところに、昔の人の、季節の移ろいに敏感な心が感じられます。
今でも、「お中元」にお線香をやり取りし、お互いに墓参りをするという美風(びふう)の残る地方もあります。「お中元」が単に義理を果たすためだけの「虚礼(きょれい)」とならぬよう心掛けたいものです。

●質問
お釈迦さまは本当に実在された方なのですか。
●答え
昔から「百聞は一見に如かず」といいますが、昨今は遺跡発掘の成果など、目に見えるものでも、疑ってかからなければならなくなってしまったのは残念なことです。
そういった意味では、今もインドの各地に、お釈迦さまの住んでおられたところ、実際にお説法をなさった場所などが遺(のこ)されていますが、こんなご質問を頂くのもいたしかたのないことなのかもしれません。
さて、仏教を開かれたお釈迦さまは、今からおよそ二千四百年ほど前に実在された方です。色々な説がありますが、紀元前463年の春・4月8日にお生まれになり、80歳の2月15日に亡くなられたといわれています。
お釈迦さまは、本当のお名前をシッダールタといいますが、お釈迦さまのご出身であるシャークヤ族(釈迦族)の聖者という意味の「シャークヤ・ムニ」を中国で「釈迦牟尼」「釈迦牟尼世尊」と音写し、それを縮めて「釈迦」「釈尊」と呼んでいるのです。
空気は普段われわれが意識しないだけで、目に見えずとも存在し、生き物の命を支える、なくてはならないものです。 肉体としてのお釈迦さまはすでに現存されていませんが、その尊い教えは現代まで生き続けています。心を養う修養週間である「お彼岸」や、お釈迦さまのお誕生を祝う「花まつり」を機会に、ぜひ再認識したいものです。

●質問
「除夜の鐘」を撞くときにいわれる「百八の煩悩」とはなんのことですか。
●答え
欲しい物を手に入れたいと思う気持ち、あることにこだわってそこから離れられない心など、人間の心や身体を煩わせ悩ませるのが、字の通り「煩悩」です。
仏教では、おおまかにいって、その根本に貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)・慢(あなどり)・疑(うたがい)・見(悪い考えを持つ)の「六煩悩」があると考えています。
そして、その六つが「六識」、眼(見る)・耳(聞く)・鼻(嗅ぐ)・舌(味わう)・身(感じる)・意(思う)という基本的な感覚のそれぞれにあって「三十六」となり、さらにそれに過去・現在・未来の三つの時をかけて「百八」になるといわれています。
ただ、その掛け算の仕方も一様ではなく、数も「百八」と決まっているわけではありません。もっと細かく分類していくと「八万四千」にもなるといわれています。
下り坂を物が自然に転がっていくのと同じように、自分のため、自分の得になることなら躊躇なくできることでも、残念ながら、いざ他人のためになると、上り坂を上るように苦労に感じられるのがわれわれ人間です。
「除夜の鐘」は、そんな自分だけには利益があるようにという「我利我利(がりがり)」の独りよがりの「煩悩」を、一つ一つ取り除いてくれる鐘です。心静かに聞いてみましょう。

●質問
なぜ「御香典」などの表書きは「薄墨」で書くものだと言われるのですか。
●答え
お悔みの心を表すために持参するお金の表書きは、「御香典」の他にも「御香資」「御香典」「御香料」 「御香華料」などいろいろな書き方があります。これらに共通しているのは、いうまでもなく「香」の字で 、昔は「お香」が手に入れることの難しい貴重品であったことに由来しています。
「香」「資」が人名では「すけ」と読まれるように、これは「お香を買うときの、ほんの助けとしてください 」というへりくだった気持ちを表現したものです。
では、なぜこれらの表書きが「薄墨」で書かれるかといえば、「お亡くなりになったとの知らせをいただき、あまりの突然のことに 驚いて、墨をする間もありませんでした」ということを表すためだと言われています。この他にも、前もって準備は何もできなかったという表現として、御香典にピンとした新札は使わず、仮に使うとしても端を折ってから入れるとか、葬儀はともかくお通夜の晩は、一般の 弔問者はあまりきちんとした礼服では出かけないなどの習慣がありました。
最近では、これらの習慣もだんだんにすたれる傾向にあるようですが、心からの弔意を表すために、さまざまに工夫された細かい気配りは大切にしたいものです。

●質問
お寺でよく「えこうする」という言葉を聞きますが、どういうことですか。
●答え
あなたは「えこう」と聞いてどんな字を思い浮かべますか。よほど仏教に興味のある人でない限り、若い人 なら、十中八九は「カラオケ」で声を響かせる残響の「エコー」ではないでしょうか。image
お寺で使う「えこう」 はもちろんこの「エコー」ではなく、「回向」あるいは「廻向」と書きます。もともとは「めぐりさし向ける」、 つまり「何かをその方向へ向かわせる」という意味です。
では「何を」「どこへ」向かわせるのでしょう。仏教を信ずる人の究極の目的は、悟りを開いて仏となる ことですが、それを達成する修行の方法についての考え方は、宗派によって千差万別です。どの宗派にも 共通していえることは、自分が善い行いを積んだことによって得られた結果(これを「功徳」といいます) を独り占めにしないということでしょう。ですから「回向」とは、この「功徳」を、自分が悟りを聞くために、 また他人の修行を助けるために振り向けることをいうのです。そして、そこからさらに意味が広がり、 亡くなった方の冥福を祈ることを指すようにもなったのです。
誰もが、ご先祖さまを大切に思うと同じくらいに「みんなで共にいい方向へ進みましょう」という 「回向」の志を持って生活すれば、この世の中にもずいぶんと違った「エコー」がかかるようになると思います。

●質問
なぜお釈迦さまのお誕生日を「花まつり」というのですか。
●答え
四月八日のお釈迦さまのお誕生日は、そのお誕生日の際に天から龍が降りてきて、 香湯の雨を降らして祝ったという故事に習い、わが国でも誕生仏に甘茶などをそそぐ 「灌仏会」として、古くからお祝いされてきました。 image
教科書などでご覧になったことがおありだと思いますが、東大寺に伝わる国宝の「誕生釈迦仏立像」 は、天平勝宝四年(七五一)四月の大仏開眼のときの「灌仏会」に使用されたものです。
その「灌仏会」「仏生会」「降誕会」「浴仏会」「龍華会」などといわれていたお釈迦さまのお誕生 日が「花まつり」と呼ばれるようになった歴史は以外に新しく、大正時代のことでした。
大正時代、明治時代に吹き荒れた廃仏毀釈という仏教弾圧の嵐によって、一時期元気をなくしていた 仏教を、民衆の心の支えとして復興しようという活動が盛んに行われました。
「花まつり」の呼称は、その運動の先頭に立っていた、安藤嶺丸という人の命名だといわれています。 お釈迦さまがお生まれになったのがルンビニの花園だったことにちなみ、また「花咲爺さん」が枯れ木に花を咲かせたように、お釈迦さまのお誕生、そしてその教えが、世の中に救いの花を咲かせたとの思い から名づけられたものでした。
「花まつり」。皆さんもご自身の心に、すばらしい花を咲かせましょう。

●質問
お正月には、お仏壇に特別な飾りが必要ですか
●答え
室内を土足で歩かないまでも、日本人の生活は年々洋式化され、都会のマンションでは、障子や襖はおろか、畳敷きの部屋すらないものが、若い人の人気を集めているといいます。そんな間取りの家では、床の間に鏡餅を飾ったり、門戸にしめ飾りを飾り、門松を立てたりして年神様をお迎えすることなど、夢のまた夢といったところでしょうか。
さて、昔からごく一般に行われてきたこれらの習慣は、直接仏教とは関係ありません。お正月を迎えるに当たって、お仏壇に特別な飾りは必要ないのですが、暮れの大掃除同様に、お仏壇も一年の感謝を込めて念入りな手入れをしましょう。
お内仏(ご本尊様)は、やわらかい筆でほこりをはらい、お位牌などの塗り物はガーゼなどで軽く乾拭きします強くこすると金がはがれたり字が消えたりするので注意が必要です。綿の白手袋を着けて作業し、化学雑巾は使いません。仏飯器など真鍮製のものは「真鍮磨き」で磨き、最後は新聞紙でくもりを取って仕上げます。
香炉の灰もよくふるうか新しくします。
正月用の生花(松や千両などおめでたいとされる植物の入ったもの)は「一夜飾り」を避けて、12月30日までにお供えします。年が明けたら、家族そろってお参りし、おせち料理やお雑煮も「初物」を差し上げるよう心がけましょう。

●質問
お仏壇を買い換えたいのですが、古い方はどうしたらいいでしょう?
●答え
木の香のする新築の家に伺うと、すがすがしい気持ちになりますが、住み慣れた我が家は、たとえ古くとも愛着があるものです。
お仏壇も家と同じで、一度新調したら、何十年と使うものです。
長年お線香やお花をお供えし、朝な夕なに手を合わせてきたお仏壇は、壊れた家具とは違い、粗大ゴミというわけにはいきません。
まず、お内仏(お仏壇に入っている ご本尊さま)まで、新しくするかどうかで、方法が違ってきます。お内仏とお仏壇(外の箱の部分)の両方を新調する場合には、それまでのお内仏の発遣(魂抜き)と、新しい仏さまの開眼(魂入れ)の作法をしなければなりません。
宗派によっては、お内仏を仏具店で購入するのではなく、ご本山からお授けいただくところもあります。
古いお仏壇は、新しいお仏壇を買った仏具店に引き取ってもらうか、菩提寺にお願いして、お焚き上げをしていただけば結構です。
お仏壇だけを新しくする場合にも、遷座法要(安置場所を移す)といって、いまある仏さまを一度発遣し、新しいお仏壇にお移ししてから再び開眼するのが丁寧なやり方です。
いままで家族の歴史を見守り続けてきたお仏壇です。
古くなったからといって、けっして粗略には扱いたくないものです。

●質問
新婚家庭です。夫婦とも両親は健在なのですがお仏壇は必要でしょうか。
●答え
このごろは、花嫁が一方的に持参するいわゆる「嫁入り道具」ではなく、家具などは、住宅事情を十分に考慮しながら、二人で一緒に選ぶことが多いようです。
しかし、それだけに、お仏壇にまで気が回らないのがほとんどのケースではないでしょうか。
お仏壇は、嬉しいとき、腹の立つとき、悲しいとき、楽しいとき、これからのお二人の生活を見守っていただき、 心の支えになってくださる仏さま(お内仏)をお祀りするところです。
ですから、ご両親が健在かどうかは関係ありません。
どうぞ、現在の自分たち、ご両親には、それに連なる数限りない ご先祖さまがいらっしゃることをお考え下さい。
そうすれば、お仏壇が必要かどうかは、近親に亡くなった方があるかないかで決まるものではないと、ご理解いただけるでしょう。
昔から、「かまど一つ作ったら、まず、仏壇を備えよ」(独立した所帯を持ったら、必ずお仏壇を設けなさい)といわれます。
大きいものでなくても結構です。 新婚生活に見合ったものを是非ご用意下さい。
夫婦別姓の問題同様、お内仏として、夫と妻、どちらの家の宗旨のご本尊さまをお祀りするかと いうことが、問題になるかもしれませんが、お互いの知恵を出し合って、お仏壇(ご本尊さま)の購入をすばらしい出発点になさってください。

●質問
宗派によって、読むお経は違うのですか。
●答え
話を日本だけに限っても、宗派によって、それぞれ読むお経は違っています。
これは各宗派の宗祖(その宗派を開いた方)が、お釈迦様の教えの中から「これこそ」と選び抜いたお経を読んでいるからです。
お経はどれも「如是我聞」(わたしはこのように聞きました)」という言葉で始まります。
これはお釈迦さまが、その都度、聞き手の状況に応じて、最善のお話をされたことを表しています。
その数は八万四千もあるといわれていますが、それだけ一人ひとりの心のありようが違うということです。
たとえば、どこかへ旅行したいと思ったときに、まず、考えるのは目的地までの交通機関ですね。
スピードを重視すれば、飛行機や新幹線、ゆっくり景色を眺めながらとなれば鈍行列車かバス、のんびり船旅ということもあります。
乗り換えなしが一番と、自家用車でのドライブばかりの人もあれば、自分の力で到達したときの充実感がなによりと、旅行は徒歩に限るという人もあります。 ゆるぎない心の平安を得るための仏道修行。
その目的にたどり着く道筋はいく通りもあるのです。
「宗論(どの宗派がすぐれているかという論争)は、どちらが負けても釈迦の恥」といいますが、宗派ごとに読むお経が違うのは、宗祖方がご自身の確信した方法で、人々を導こうとされた結果なのです。

●質問
お彼岸のお参りはお中日にしなければいけませんか
●答え
四季の豊かな日本ですが、とりわけ春は万人に好まれる季節であり、一説には「春は三度来る」といわれています。 つまり、新しい年を迎えての初春、二月の節分の後の暦の上での春、そうして、「暑さも寒さも」といわれる、お彼岸を境にやってくる季節としての春の三度です。
その、自然の気候も本当の春を迎えるお彼岸の中日、春分の日は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」として、国民の祝日にも指定されています。そこで、実際にお寺参りは、どうしてもこの一日に集中しがちで、大規模な霊園などの周囲では、毎年大変な交通渋滞となるようです。
お中日は、仏教の基本的な考え方である中道(かたよらないこころ)の象徴として、昼夜の時間が等しい春分の日に置かれています。
しかし、お彼岸は、そのお中日の前後三日間に、布施(ほどこす)・自戒(つつしむ)・忍辱(しのぶ)・精進(はげむ)・禅定(こころをしずめる)・知恵(正しく学ぶ)という六つの徳目を配した、一週間の修養期間なのです。
ですから、菩提寺で、特別な法要などが行われる場合は別として、お中日にこだわる必要はありません。 貴重な有給休暇でしょうが、たまにはご先祖さまのため、ご自身のために有効に使い、平日にゆっくりとお参りください。

●質問
「お盆」は、食器を運ぶ「お盆」と関係があるのですか?
●答え
まったく同じ字を書きますが、関係ありません。仏教の生まれたインドの古い言葉で、「逆さまに吊り下げられた苦しみ」のことを「ウランバナ」といいますが、その読みを漢字で写したのが「盂蘭盆」であり、さらにそれを略したのが「お盆」です。「お盆」は、お釈迦さまの高弟の一人である目連さまが、欲深のせいで餓鬼道に墜ちた自分の母親を救うために、夏の修行を終えた大勢のお坊さんに食べ物を捧げたという故事に由来しています。食べ物を口に入れようとすると、それが炎に変わってしまうという餓鬼道の苦しみが、この「ウランバナ」であったというわけです。
最近、遊園地などで、身体にロープを結びつけ、高いところから飛び降りる「バンジー・ジャンプ」という危険きわまりない遊びが流行っています。大きな事故の起きる前に、一日も早くブームが去ればいいと思っていますが、あれは飛び降りた後で、いずれ誰かが引き上げてくれることが分かっているので、皆挑戦するのであって、もし逆さに吊り下げられたまま放置されるとなれば、誰もやろうと思う人はないでしょう。年々、恐怖の度合いを増して、各所に新設されてゆくジェットコースターのたぐいを見ても、人間の欲望は、次々とエスカレートしていくものであることがわかります。お盆を機会に、自分の欲の深さを顧みましょう。

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