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●答え
「家族葬」「リビング葬」など呼び方はいろいろですが、都市部を中心に、会社や近隣の人に知らせることなく、家族や本当に親しい友人のみを招くだけの葬儀が行われるようになってきました。 まるで個人宅の居間のような式場に棺(ひつぎ)を安置し、スナップ写真や生前のビデオ映像を見たり、参列者が会食しながら、思い出を語り合うといった、故人との「別れ」に主体をおいた葬儀です。 これに対して「密葬」はとりあえず近親者のみにて一旦葬儀を執(と)り行い、後日告知の上、改めて「本葬」「表葬(ひょうそう)」を行う場合に使われる言葉ですから、「家族葬」とは基本的に違うものです。 少子高齢化(しょうしこうれいか)が進み、亡くなる方の同世代の知り合いはすでに無く、また喪主も現(げんえき)を退(しりぞ)いている。地域社会との関わりもさほど深くはない。さらには、弔問者(ちょうもんしゃ)の接客や挨拶(あいさつ)などから解放されたいなどの思いが、このような形式の葬儀を生み出した一因(いちいん)でもあるようです。 かつては「通夜」が、その字の通り、夜通(よどう)し故人を偲(しの)ぶという役割を担(にな)っていましたが、他人に見せる儀式に変化する中で「家族葬」も需要が高まってきたものでしょう。 ただし、葬儀社の用意したパッケージのみが優先(ゆうせん)され、後で、菩提寺(ぼだいじ)さんとのトラブルになる例も少なくないようです。事前に充分な相談が必要でしょう。
「清貧(せいひん)」が美徳(びとく)と讃(たた)えられた時代は遠く過ぎ去り、「欲しいときに欲しい物が何でも手に入る」、国民全体に、そんな「コンビニ感覚」が蔓延(まんえん)しています。物質的には恵まれているといえる時代、誰もが生きたままの「餓鬼」となりうる危機(きき)的状況にあるように思えてなりません。
人生楽(らく)して生きたい、病気になりたくない、いつまでも若くいたい、死にたくない、愛(いと)しい人と別れたくない、嫌(きら)いな人と会いたくない、欲しいものは手に入れたい、心の痛みは味わいたくない。誰もがごく普通に思い、願うことですね。 では、この中に実現可能なことが一つでもあるでしょうか。自分の努力によって、ある程度まで先延ばしにできるようにも思われますが、どれをとっても避(さ)けられないことばかりです。
これがいわゆる「四苦八苦(しくはっく)」ですが、仏教を開かれたお釈迦(しゃか)さまは、人生は「苦」であると見きわめ、その「苦」がどこから来るのかを考え続けられました。その答えの一つが、「〜したい」「〜したくない」という「苦」は、実は「自分は」という自己中心の「欲」から出てくるものだということでした。 仏教で、「欲」を離れるというのは、「何も求めない」ということではありません。決して、前向きに生きる「意欲」や「向上心」を失うことと同義語(どうぎご)ではないのです。 「欲」や「執着(しゅうじゃく)」を捨てるというのは、世の中は、「自分」一人の力で回っているのでなく、無限の過去から続く「原因」と「結果」との積み重ねであることを知りなさい、何でも自分の価値観で判断したり、自己中心の物の見方をするのではなく、一歩離れたところから、見直してごらんなさいということでしょう。
お仏壇の中の仏さまを「お内仏(ないぶつ)」といい、宗派によってはお仏壇そのものをこう呼ぶこともあります。 これは、僧侶の日常生活の場である「庫裏(くり)」や、「私堂(しどう)」「持仏堂(じぶつどう)」などに安置(あんち)された「念時仏(ねんじぶつ)」を、ご本堂の「ご本尊(ほんぞん)」に対して呼んだもので、「内」というのは「私的な」「うちうちの」という意味です。 この「お内仏」は、お仏壇にお祀(まつ)りする際に、ご本山(ほんざん)や菩提寺(ぼだいじ)さまで、いわゆる「魂入(たまい)れ」「開眼(かいげん)」の作法(さほう)が行われて初めて、それぞれの家の「ご本尊」として「機能(きのう)」し始めるわけですが、仏さまとして毎日掌(て)を合わせている仏像を手にとって、はたきをかけたり、布で拭(ふ)いたりするのは憚(はばか)られるとお考えになることは至極(しごく)当然のことだと思います。 たしかに、寺院での年末の「すす払い」や、お盆の前の「お身拭(みぬぐ)い」などでは、作業に入る前に、仏さまを、元のただのお像に戻すために、「発遣(はっけん)」といって、「魂抜き」の作法が行われることが多いようです。 もちろん、皆さんのご家庭でもそうするのが最善には違いありませんが、実際には難しいでしょう。 したがって、仏さまとしてお掃除することになるわけですから、金箔(きんぱく)の部分には直接手を触れず、やわらかい布や専用の筆を使い、細工(さいく)の細かい部分を傷つけたりするこのないよう注意を払うことが大切です。 仏さまとして粗末(そまつ)にせぬよう、きれいにして差し上げましょう。
最近流行(はやり)の「四字熟語」の本などにも登場しますが、これは仏教の経典に出てくる言葉です。人と接するときには「なごやかな笑顔と、愛情のこもった言葉」で、という意味ですが、これは「布施(ふせ)」という考え方を基礎としています。 通常「布施」というと、お寺さんにお持ちするお金のことだけが思い浮かぶかもしれませんが、実は私たちの社会は、この「布施」の精神抜きには円滑(えんかつ)に動いていきません。 信者が寺院や僧侶にお金や品物などを施(ほどこ)すことを「財施(ざいせ)」といいますが、これに対し、金品を使わずにできる「布施」を「無財(むざい)の七施(しちせ)」といって、眼施(げんせ)(やさしい眼差(まなざ)し)・和顔悦色(わがんえつしき)施(おだやかでにこやかな顔)・言辞(げんじ)施(励(はげ)ましの言葉)・心(しん)施(慈(いつく)しみの心)・身(しん)施(親身(しんみ)な態度(たいど))・坐床(ざしょう)施(心地よい椅子(いす)とベッド)・房舎(ぼうしゃ)施(快適(かいてき)な部屋)の七つが示されており、「和顔愛語」は、まさに代表選手といえます。 もし、私たち一人一人が相手の心に寄り添い、与えることの喜びを知ったなら、世の中が明るくなることはもちろん、自分自身も楽しい毎日を送ることができるでしょう。 自分の価値(かち)にそぐわないことには、なんでもクレームをつけた方が勝ちという「ゴネ得(どく)」社会や、利益を追求する人だけが「勝ち組」を名乗る世の中にしないためにも、「和顔愛語」の心持ちを大切にしていきたいものです。
自分を育(はぐく)んでくれた山河、共に同じ時を過ごした懐(なつ)かしい人々。高速道路でどんな渋滞(じゅうたい)に巻き込まれようと、二百パーセントを超える乗車率の列車に押し込められようと、お盆を故郷で過ごすことは何にも代え難い喜びがあります。 また、遠く故郷を離れ「盆暮れ正月」の年に二度しかお参りできないご先祖さまの墓地の前で手を合わせれば、義務をはたしたという安堵(あんど)感ばかりでなく、何とはなしに心に温かいものが通うのを感ぜずにはおられないことでしょう。 お盆に帰省できないのは、さぞかし残念なことと拝察(はいさつ)いたします。 最近は遠隔地(えんかくち)でお参りができない方のために、お花やお線香を手向(たむ)けて墓参を代行する業者などもあるようですが、それなりに費用もかかりますし、いくら証拠の写真が送られてきたところで、あなたご自身の心はどうでしょう。 仕事の都合などでお盆にお参りできない場合は、菩提寺(ぼだいじ)のご住職、あるいはご親戚のかたに懇(ねんご)ろに代参(だいさん)をお願いするのが第一ですが、その上で、お盆という期間にとらわれずとも、何かの機会をみつけ、ご自身でお参りになることをお勧めします。 故郷があなたを待っているのは、お盆に限ったことではないはずです。
お彼岸のお寺参りやお墓参りを、ご先祖さま、亡き方たちのためという側面から見れば、日頃のご無沙汰(ぷさた)をお詫(わ)びする、懐(なつ)かしい方たちを偲(しの)ぶ、久しぶりにお掃除をするなどの答えが挙(あ)げられるでしょう。 しかしこれとは別に、お参りには他人(ひと)のためだけではなく、自分のためにするという一面があることを忘れてはなりません。ご本尊(ほんぞん)さまに手を合わせ、お墓参りをすることは、いのちの尊(とうと)さを知り、心の平安を得、あなた自身の信仰心を育(はぐく)むことにつながっていくのです。 お彼岸は、迷(まよ)いの世界であるこちらの岸(此岸(しがん))に対して、悟(さと)りの世界、向こう岸を表す言葉です。けれども、私たちはこの日常を生きている限り、貪(むさぼ)り、怒(いか)り、愚(おろ)かさなどに惑(まど)わされ、なかなか、この向こう岸に近づくことができません。 お彼岸にお参りすることの基本にあるのは、それが彼岸に近づくための良い行(おこな)いであるということです。「しなければいけない」という「義務感(ぎむかん)」にとらわれたお参りと、「そうしたい」と自発的(じはつてき)にするお参りとでは、自(おの)ずとその結果は違ったものになるでしょう。 お参りという清浄(しょうじよう)な行いを通し、今こうして自分が生きているのだという充実感(じゅうじつかん)を味わい、明日への活力が得られたなら、それこそ彼岸への第一歩です。お彼岸のお参りは、誰のためでもない、自分自身の修養(しゅうよう)のためでもあるのです。
「恵方巻」って何?と思われる方も、まだまだ多いと思います。関西のごく一部の地域を除いては、ついここ数年前まで、そんな習慣はなかったのですから無理もありません。 節分は、もともと「立春や立夏などの春夏秋冬の各季節の始まりの日の前日」のこと、つまり「季節を分ける日」のことをいいましたが、現代では、立春の前の日をさす場合がほとんどです。 コンビニエンスストアなどで売られている「恵方巻」の解説には、その節分の夜、その年の十干(じっかん)によって定められている年神(としがみ)様の来臨(らいりん)する方角=恵方に向かって立ち、眼を閉じて、願い事を思い浮かべながら、太巻き寿司を一気に食べると、その願い事が叶(かな)うなどとあって、これはもちろん仏教の行事ではありません。 お年寄りや小さな子供たちに起こる事故の一つに、コンニャクのゼリーや雑煮のお餅のように、誤飲(ごいん)や嚥下(えんげ)困難による窒息(ちっそく)があります。あわてて飲み込もうとしたために息が詰(つ)まり、最悪の事態(じたい)を招くことさえあります。福を求めてかぶりついたつもりが、そんな悲劇を生むことになっては洒落(しゃれ)にもなりません。 一説(いっせつ)には、「恵方巻」は業者が海苔(のり)の販売促進のために全国展開したともいわれています。季節感あふれる行事は大事にしなければなりませんが、その地域に根付いてこそのものといえるでしょう。利益(りえき)はあがっても、ご利益はどうでしょうか。
葬儀のやり方は宗派によっても、また地域によってもいろいろと違いがあります。「直葬」というのは、ここ十年ほど、都市部を中心に急速に増えつつある葬儀の形式で、通夜や葬儀を執(と)り行わずに「直接火葬に付す」ことからこう呼ばれてます。火葬炉の前で、本当に短い時間お経を上げる場合もありますが、公営の火葬場等では、それすらも許されないところもあります。 かつては主に経済的な理由から選択されていたやり方でしたが、「老老介護」などの言葉が示すとおり、高齢化が進み、亡くなられた当人はもとより、喪主(もしゅ)を努(つと)める方もすでに現役を離れている、仮に通夜・葬儀を営(いとな)んだとしても、弔問(ちょうもん)に訪れるのは本当の身内だけである等々、「直葬」が選ばれる理由も変化してきています。 しかし、もしその根底に「ただ荼毘(だび)に付しさえすればいい」というような、あまりにドライな考え方があるとすれば、悲しすぎると言わざるを得ません。 通夜・葬儀などの一連の葬送儀礼(そうそうぎれい)は、亡くなった方のためであることはもちろん、遺(のこ)された方たちの悲しみを癒(いや)す場としても重要です。 「直葬」にせずとも、ご家族だけで営む方法などもあります。また、お寺さんによっては、「直葬」で済ませた場合、その後の納骨(のうこつ)を認めないところもあると聞きます。十分にご相談になってお決めください。
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