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続・質問帳バックナンバー
 

●質問
★お参(まい)りが終わったら、すぐに「お灯明(とうみょう)」を消してもよいでしょうか。

●答え

我が国では、年間五万件もの住宅火災が起きていますが、その主な出火原因としては「放火(ほうか)」「たばこ」「コンロ」「たき火」「漏電(ろうでん)」「火遊び」などが挙(あ)げられます。その中に毎年のように入ってくるのが、実は「灯火(とうか)」=「お灯明」、お仏壇(ぶつだん)のおロウソクの火なのです。お供(そな)え物の包装紙や、カーテンに燃え移ったなどの事例がありますが、どれも「その場に誰もいなかった」というのが一番の原因といえます。
「お通夜(つや)の晩には灯火を絶やさぬように」とか、「ご仏前のみ灯(あかし)途中で消さない」などといわれることがありますが、私は「見ていられる人がいない時は消して下さい」とお願いしています。
一口にロウソクといっても、石油製品の「バラフィン」から作られる「西洋ロウソク」。ハゼの実、エゴマ、菜種(なたね)などの植物油から手造りされる「和ロウソク」。蜂の巣の蝋分(ろうぶん)から作られた「蜜蝋(みつろう)」の入ったものなど材料によって、炎の形やゆらぎ方、溶けたロウの垂(た)れ方にそれぞれ特徴があります。
花の絵や経文(きょうもん)が描かれた「絵ロウソク」、コップに入っているもの、水に浮かべるもの、香りも楽しめるものなど種類も豊富です。燃焼時間も五分、八分、十分と、かなり細かい刻(きざ)みで設定されています。いろいろ試し、ご自身の生活スタイルに合わせるだけでなく、仏さまにお供えする気持ちでお選びください。


*

 

●質問
★「お釈迦(しゃか)さまの高弟(こうてい)の目連(もくれん)さまが、「餓鬼道(がきどう)」に堕(お)ちたお母さんを救ったのが「お盆」のいわれだと伺いました。なぜそんな偉(えら)い人のお母さんが「餓鬼」の世界に堕ちてしまったのですか。

●答え

 乳飲(ちの)み子がオギャーと泣けば、母親は自然と乳が張り、一歳近くになって、最初に覚える言葉は「ジジ」でも「ババ」でも、また「パパ」でもなく、ほぼ決まって「ママ」なのは、「生物学的」に生命を維持(いじ)していくために与えられた能力だ、という話を聞いたことがあります。
それほど子どもにとって母親は特別な存在であり、母親にとっても、両手を前に差し出し、ヨチヨチ歩きで「抱(だ)っこ」をせがんでくる我が子は、何物にも代えがたい宝です。
目連さまのお母さんは、どんなに食べ物や資材に余裕(よゆう)があっても、目連さまだけにそれを与え、他に施(ほどこ)すことをしなかったので「餓鬼道」に堕ちたといわれています。「自分の子どもを可愛い、大切だと思って何が悪いの?」そう思われる方も多いでしょう。しかし、それも、周囲への配慮(はいりょ)を欠いた行動につながれば、「子煩悩(こぼんのう)」の言葉示すように、仏教で誡(いさ)める「煩悩」の一つ「貪欲(とんよく)=むさぼりの心」につながることを、この説話は教えているのです。
子育てをする人も、周りの人も、お互いが気持ちよく気配りのできる社会、そういうゆとりのある世の中を目指したいものです。


*

 
●質問
★最近、御朱印(ごしゅいん)集めに熱中しています。どんなことに気をつけたらいいですか。

●答え

 *あなたは、頂いてきた御朱印を、その後ゆっくりと見返すことはありますか。御朱印ではありませんが、以前、日本屈指(くっし)の絵馬(えま)の収集家(しゅうしゅうか)の方からこんなお話しを伺いました。
「絵馬を集めていることを知って、ご親切に旅行先から絵馬を送ってくださる方があります。しかし、私が絵馬を集めるのは、お寺参りの手段であって目的ではないのです。どんなご本尊(ほんぞん)さまや伽藍(がらん)だったか。その日の天候や季節、誰と一緒にお参りしたかなどの情報が、一枚一枚の絵馬にすべて込められています。ですから申し訳ないことですが、自分で授(さず)かった絵馬と他人(ひと)から贈(おく)られた絵馬とでは、思い入れが違うのです」と。
御朱印は、もともとは写経(しゃきょう)を奉納(ほうのう)した証(あか)しで、「御朱印帳」は「納経(のうきょう)帳」ともいいます。そして、そこに押される御朱印は、そのお寺のご本尊さまそのものなのです。
古くは切手や古銭(こせん)などから、最近ではスマホゲームの中で入手して使えるアイテム(武器(ぶき)や道具)まで、人は他人の持っていないものを、自分だけ手にしたいという欲望を持っています。しかし「求不得苦(ぐふとくく)」といって、求めて得られないときに、それは苦しみにつながります。
御朱印集めはたんなる収集(しゅうしゅう)ではありません。お寺参りのご縁(えん)を結んでくれる手段とし、たとえ対価(たいか)は数百円でも、大切に扱っていただきたいものです。ゆめゆめインターネットオークションなどで売買してはいけません。

 
●質問
★なぜ「秋分の日」を「お中日(ちゅうにち)」というのですか。

●答え

 *高解像度(こうかいぞうど)テレビの開発で、人間の目では判断がつかない、本当に微妙(びみょう)な色彩まで表現できるようになりました。たまに旧式なブラウン管テレビに出逢うと、どうしてこんなぼやっとした画面で我慢(がまん)できていたのだろうとさえ思います。そればかりでなく、世の中のさまざまな分野でデジタル化が進み、どんなものでも1か0の信号の組み合わせで成り立たせることができる。そんな時代の到来(とうらい)をひしひしと感じます。
 しかしその一方で、極端(きょくたん)にかたよった考えに基(もと)づき「自分の価値観(かちかん)に合致(がっち)しないものはすべて排除(はいじょ)する」という事件やテロが後を絶ちません。実はこの「かたよった考え」から離れて「かたよらない心」を持つことが、仏教の最も基本的な教えの一つ「中道(ちゅうどう)」なのです。
 人の感情、喜怒哀楽(きどあいらく)がそうであるように、世の中の物事は、「ある」「ない」、「是(ぜ)」「否(ひ)」だけで解決がつくわけではありません。いろいろな 因(いん)=原因 や 縁(えん)=条件 によって次々と変化していくのです。
 太陽がほぼ真東から昇(のぼ)り真西に沈み、昼夜の長さがおおよそ等しくなる「秋分の日」は、その大切な「中道の教えに思いを寄せる日」だからこそ「お中日」と呼ばれるのです。
 「白黒はっきりさせない」というと悪いことのように感じられますが、その「曖昧(あいまい)さ」が人生を豊(ゆた)かにしてくれることもあるのです。「かたよらない心」を心がけましょう。

 
●質問
★お坊さんが持っている半開(はんびら)きの扇(おうぎ)はなんですか。

*●答え

 今でこそクーラーやエアコン、扇風機にその地位を奪(うば)われて、あまり出番がありませんが、団扇(うちわ)・扇といえば、高温多湿な日本の夏には欠かせないものでした。
 団扇は、聖徳太子(しょうとくたいし)がこれを考案したとか、鑑真和上(がんじんわじょう)が奈良時代に唐から将来(しょうらい)したなど諸説ありますが、実際はもっと古い時代から使われており、初めは宮中(きゅうちゅう)や寺などで虫を払うのに用いて「打羽(うちは)」の字を当てていたようです。そのため、今でも団扇を虫除けや厄除(やくよ)けのお守りにする風習が残っている地方もあります。
 扇は平安時代から、貴族などが顔を隠すための「檜扇(ひおうぎ)」「杉扇(すぎおうぎ)」などの「板扇(いたおうぎ)が作られ始め、なんとこれらは「冬扇(ふゆおうぎ)」と呼ばれています。
 お尋ねの扇は「中啓(ちゅうけい)」で、現在普通に使われている「末広(すえひろ)」などの扇とは違い、完全に閉じることができず「中(なか)ば啓(ひら)いている」のでこう呼ばれます。これもやはり扇(あお)ぐための扇ではなく、儀式(ぎしき)などに用い、閉じたまま使うのが原則です。宗派によっては、祝儀(しゅうぎ)には朱色(しゅいろ)の骨で金銀や絵の描かれた扇面(せんんめん)のもの、不祝儀(ぶしゅうぎ)には黒色の骨で灰色の扇面のもの、と使い分けることもあります。
 また、仏像を拝むときや人と相対(あいたい)するときに間を置いて、へりくだって、自分が一段下がった位置にいることを示すための「結界(けっかい)」の代わりに用いたりもします。
 ちなみに「末広」「中啓」は」どちらも「夏扇(なつおうぎ)に分類されています。

 
●質問
★お寺や宿坊(しゅくぼう)などで出されるお料理を、なぜ「精進料理(しょうじんりょうり)」というのですか。

*●答え

 人間が生きていく上で必要なものとして、よく「衣食住(いしょくじゅう)」の三つがあげられます。大きな災害に見舞われたときなどによくわかりますが、どれか一つでも欠けたら大変なことです。衣服、住む家、どちらもなくてはならないものに違いありません。中でも「食」は直接、命の存続にかかわるものですから一番切実です。
 仏教では、菩薩(ぼさつ)(いずれは仏さまになって人々を救おうと考える人)の修行(しゅぎょう)法として、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」といって、布施(ふせ)(施(ほどこ)す)・持戒(じかい)(慎(つつし)む)・忍辱(にんにく)(忍(しの)ぶ)・精進(しょうじん)(励(はげ)む)・禅定(ぜんじょう)(身心を鎮(しず)める)・智慧(ちえ)(学ぶ)という六つの修行が定められていますが、「食」はその助けにもなる一方、邪魔(じゃま)にもなるものだと考えられてきました。何も食べなければ励(はげ)もうにも力が出ませんし、逆にニラやニンニクなどの刺激物(しげきぶつ)や肉などの入った「スタミナ定食」ばかり食べていたのでは、興奮(こうふん)し、欲望が次々と沸(わ)き起って修行になりません。
 そうしたことを、よくよく考えて、寺院や僧坊(そうぼう)で、豆腐や湯葉(ゆば)、納豆などの大豆タンパクを上手に使い、仏教で固く禁じられた殺生(せっしょう)を犯(おか)すことなく修行僧を励まし、かつ修行の妨(さまた)げにならぬように工夫されてきたのが「精進料理」なのです。
 「薬膳(やくぜん)」という言葉が示すように「精進料理」は、単に肉を用いない「ベジタリアン(菜食主義者(さいしょくしゅぎしゃ))用」というだけでなく、修行を円滑(えんかつ)に進めるための薬でもあるのです。

 
●質問
★最近「終活(しゅうかつ)」という言葉を耳にしますが、仏教的にはどうとらえたらよいのでしょうか。

*●答え

 一口に「終活」といっても、最期(さいご)を迎える際の終末期(しゅうまつき)の医療や葬儀、財産分与など「こうして欲しい」という事柄について、「エンディングノート」や「遺言書」を遺(のこ)すこと、自分の所有物を減らしておくこと、パソコンのデータなども含め、社会的な関係を整理しておくことなど、いくつかの側面があります。
 中でも、残していく家族に迷惑を掛けたくないと、身体も元気で、認知症などになる前に、愛着や思い出の詰まった品々を自らの手で捨てること、いわゆる「断舎離(だんしゃり)」を断行(だんこう)することは至難(しなん)の業(わざ)です。
 先年、私は亡父の遺品の中から祖母のアルバムを見つけました。そこには何と六歳の父と四歳の母が仲良く写っており、「お父さんと私は小さい頃に許嫁(いいなづけ)になったの」という母の言葉が証明されることとなりました。
 最近は親の遺品を片付けることを「親片(おやがた)」といって、専門の業者もありますが、自分の生きた証(あか)しや、家族の歴史を葬(ほうむ)り去ることが「終活」ではありません。
 あえて「仏教的なとらえ方」というならば、「物に執着(しゅうじゃく)しない生活をする」こととなり、それなりに必要ですが、「よい最期を迎える」ためでなく、「よりよく生きるため」の「終活」であってほしいものです。  

 
●質問
★お釈迦(しゃか)さまはおひとりなのに、なぜいろいろな宗派があるのですか。

*●答え

 「仏教」というのは、そのまま読めば「仏の教え」ですが、少し読み方を変えれば「仏になる教え」「仏を目指す教え」ということができます。
お釈迦さまの説かれた「仏教」の基本的な考えの一つに「苦(く)」というものがあります。この世は「生老病死(しょうろうびょうし)」などのいわゆる「四苦八苦(しくはっく)」に充(み)ち、何一つ自分の思い通りになることはない、そうした「苦しみ」を脱し、それにとらわれない境地(きょうち)に到達(とうたつ)することが、「仏になる」「仏を目指す」ということだといわれています。しかし、その道のりは決して平坦(へいたん)なものではなく、また一様でもありません。
北陸新幹線が金沢まで延伸(えんしん)し、時間も短縮されて、関東からは随分(ずいぶん)と便利になりました。しかし新幹線が使えるからといっても、人によっては、荷物が多いから自家用車で行きたい、でも、自分で運転するのはきついので、誰か戸口から戸口へ乗せてくれないだろうか。あるいは、私は値段の安さで深夜バスを選んだ、僕は飛行機が大好きだから等々、行き方は様々です。中には、何日かかっても自分の足で歩いて行ってみせるという強者(つわもの)もいることでしょう。
誰もが、お釈迦さまが示されたゴールを「目指す」としても、その方法は千差万別(ぜんさばんべつ)、一人一人その人に適した方法が違っている、それが、いろいろな宗派があるということです。


 
●質問
★一人娘が他家(たけ)に嫁(とつ)ぎ、今後わが家のお墓を護(まも)っていく人がいません。どうしたらよいでしょう。

*●答え

 近年、少子化で墓地を継承(けいしょう)していく人が確保できない、遠隔地(えんかくち)にあって墓参をすることが難しいなどさまざまな理由から、ご遺骨(いこつ)を取り出し、墓石を片付けて更地(さらち)に戻し、先祖代々受け継いできたお墓を手放す、いわゆる「墓じまい」ということがいわれるようになりました。
同じ「墓じまい」でも、このまま放置すれば、いずれ「無縁(むえん)」となって、誰もお参りする人がいなくなってしまうので、自分の代でしっかり始末(しまつ)を付けておきたいという積極的な場合もあれば、子どもたちに「迷惑を掛けたくない」などという何とも寂しい理由で行われることもあるようです。
一口に「墓じまい」といっても、ご遺骨を菩提寺(ぼだいじ)さまの「合葬墓(がっそうぼ)」等に移すことが可能なのか、それともまったく別に霊園や納骨堂(のうこつどう)などを用意しなければならないのか等々、そのやり方によって手続きの方法は大きく違ってきます。
たとえ、性は変わってもお嬢様が護ってくださるならそれもよいでしょう。いずれにしても「墓じまい」は重大事です。一人でことを進めてしまうのではなく、ご家族はもちろんのこと、まずは菩提寺のご住職に十分にご相談し、慎重(しんちょう)の上にも慎重にご決断いただきたいと思います。


 
●質問
★「初彼岸(はつひがん)」には、その方以外のお墓にお参りしてはいけないといわれました。本当ですか。

*●答え

 亡くなってから最初に迎えるお彼岸、あるいは、ご納骨(のうこつ)が済んで初めてのお彼岸を「初彼岸」「新(しん)彼岸」などと呼ぶことがあります。
お彼岸は、一年十ニヶ月の中で、三月と九月、それぞれの「お中日(ちゅうにち)」である「春分の日」「秋分の日」を挟(はさ)んで前後三日ずつの一週間、春秋の二回あります。ですから、「初彼岸」を迎える方は、どんなに遡(さかのぼ)っても、過去半年の間にお亡くなりになったということになります。
大切な方、愛(いと)しい方を亡くされたご遺族の方にとってみれば、気持ちはもちろんのこと遺品の整理、相続の手続き等も含め、まだまだその方に関わることの多い日々を送っていらっしゃることでしょう。
そんなご遺族の悲しみにも配慮(はいりょ)して、「初彼岸」には、その亡くなって間もない方に専心(せんしん)しましょう、思いを寄せましょう、ということからそういわれたのだと思います。
しかし、私たちが一人の人間として生命を授(さず)かり、一生を過ごしていく間に「ご縁(えん)」を結ばせていただくのはその方ばかりではありません。お彼岸は亡き方々を偲(しの)ぶ上でも大切な一週間です。「初彼岸」を迎える方のところにはまず第一に、さらに、ご先祖さまや縁(ゆかり)のある方々のお墓にも懇(ねんご)ろにお参りしたいものです。


 
●質問
★「除夜(じょや)の鐘」は「煩悩(ぼんのう)」を取り除くために撞(つ)くと聞きました。どういうことですか。

*●答え

  「煩悩」とは、私たちの心や身体を「煩(わずら)わせ悩(なや)ませるもの」です。仏教では、「苦」の原因は、この「煩悩」にあると説いています。
「六煩悩」(貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・見(けん)=むさぼる・いかる・おろか・あなどる・うたがう・悪い考えを起こす)の六つが、基本的な感覚である「六識(ろくしき)」(眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)=見る・聞く・嗅(か)ぐ・味わう・感じる・思う)のそれぞれにあって三十六、さらにそれに過去・現在・未来の三つの時をかけて百八にもなるというのが、いわゆる「百八煩悩」です。自分には一つも当てはまらないという人はいないでしょう。
「除夜」は「除日(じょじつ)の夜」といい、掃除(そうじ)や沐浴(もくよく)など身辺(しんぺん)を清(きよ)めるのに適(てき)していると定められていた日のことをいいました。埃(ほこり)のたまった部屋は掃除をすればきれいになりますし、身体の汚れは風呂で洗い流すことができます。しかし「身から出た錆(さび)」というように、「煩悩」は私たちの心身の中にありながら、私たち自身を苦しめるものなのです。
「除夜の鐘」の一つ一つが「そんな煩悩まみれの自分自身をしっかりと見つめ直せよー」っと鳴り響(ひび)いている、そんな意識を持って耳を澄(す)ませば、きっと新たな気持ちで新年が迎えられるでしょう。


 
●質問
★海外に赴任(ふにん)することになりました。家族も同道(どうどう)しますので、今後数年間は墓参りができなくなります。どうしたらよいでしょう。

*●答え

  飛行機などの交通機関の発達により、地球上の「時間的距離」は縮(ちぢ)まったといわれますが、海外ともなれば、そう頻繁(ひんぱん)に帰国するわけにはいきません。その間、懐(なつ)かしいご先祖さまのお墓にお参りし、手を合わせることができないのは、何とも寂しいこととご拝察申し上げます。
  さて、ご自分たちでお参りすることが不可能な場合には、当然のことながら、代わりにお参りしていただく「代参(だいさん)」をお願いすることになります。問題は、その「代参」を誰に依頼するかということです。
  まず、第一はご親戚でしょうが、それが難しいときには、年間契約等でお花・お線香を上げ、お参りしてくれる、墓石業者や葬儀社等の「墓参代行(ぼさんだいこう)」もあり、報告の写真なども送ってくれます。これは、確実なやり方かもしれませんが、まったくの他人ですから、心情的(しんじょうてき)には満足のいかないところもあります。
  やはり、一番良いのは菩提寺(ぼだいじ)さまに直接お願いすることでしょう。それも出発前にいっぺんに依頼するのではなく、お彼岸やお盆、ご命日など、それなりのお花やお線香をそえて、その都度(つど)こまめにお便りをさしあげましょう。
  そうした、まごころが伴(ともな)ってこそ「代参」が意味を持つものになるでしょう。


 
●質問
「手元供養(てもとくよう)」という言葉を耳にしました。どういうことでしょうか。

*●答え

  現代は人と人との横のつながり、「絆(きずな)」ということが叫(さけ)ばれる反面、戦後進んだ「核家族化(かくかぞくか)」により、いわゆる「家」という単位でものを考える機会が少なくなり、「先祖代々のお墓に入る」「子々孫々お墓を守っていく」といった、ご先祖さまを想(おも)う「継続(けいぞく)」の意識はだんだんに薄れてきているといわれます。
  そうしたことを背景(はいけい)に、グリーフケア(近しい人を亡くし悲嘆(ひたん)にくれる人の心を癒(いや)すため)の方法の一つとして、近年「手元供養」という言葉ができました。
  荼毘(だび)に付(ふ)したお骨(焼骨・遺灰(いはい))を分骨(ぶんこつ)し、一部は墓地に納骨(のうこつ)して、残り(分骨しない場合は全部)を自分の「手元」に置いてお参りすることをいい、「自宅供養」ともいいます。もちろん昔からある言葉ではなく、加工業者や葬祭業者などが創り出した言葉です。
  以前から、大勢の方のお骨を集めて「骨仏(こつぶつ)」にする寺院はありましたが、人造ダイヤモンドのように、ペンダントやブレスレッドに加工したり、パウダー状にした遺灰を陶器のように焼き固めたり、樹脂と混ぜて花瓶や遺影(いえい)入りプレートにしたりといった、いろいろな形態が考え出されたのは最近のことです。
  一般的とは言い難(がた)いですが、愛しい方が亡くなられた後も、いつまでも一緒に過ごしたい、その拠(よ)り所となるものが欲しいという切なる心情に答えたものとはいえるでしょう。


 
●質問
お寺のご本堂の「落慶式(らっけいしき)」に伺うときの服装を教えてください。

●答え

*   お寺=仏事=不祝儀(ぶしゅうぎ)=喪服(もふく)と考える方も多いかもしれませんが、「落慶式」は立派な祝儀、お祝いですから、当然そうした服装になります。友人、知人の結婚披露宴に伺う際の服装に準ずるといえばよいかもしれません。総代(そうだい)や世話人、あるいは建設委員などの役職につかれている場合は、男性ならモーニングや略礼服(りゃくれいふく)でネクタイも祝儀用、女性は和装なら訪問着か附下(つけさげ)で、紋(もん)が入っていればより正装(せいそう)となります。留(と)め袖(そで)は黒にしろ色にしろ、どちらかといえば「身内(みうち)」の服装ですから、そこまでの必要はありません。洋装ならスーツが望ましいでしょう。
一般の檀信徒(だんしんと)の方は、Tシャツにジーンズ、サンダル履きといったようなラフなスタイルでなく、一応あらたまった形ならばどんな服装でも男性ならダークスーツ(もちろん黒ネクタイは禁物です)、女性なら黒以外の色のワンピースで十分です。和装なら色無地の三つ紋か一つ紋で、合わせる帯は袋帯(ふくろおび)です。小紋(こもん)に名古屋帯ではカジュアルすぎて相応(ふさわ)しくありません。
最近は一生の間に何度とない「ハレ」と、日常生活である「ケ」との境(さかい)が曖昧(あいまい)になった上に、その普段の生活の中でも「クールビズ」のようなカジュアル化が進んでいます。
ご本堂の「落慶式」はお寺やご住職のみならず、檀信徒の皆さんにとっても「晴れの日」です。どうぞきちんとした服装でお出かけ下さい。


 
●質問
新年にあたりお数珠(じゅず)を新調(しんちょう)したいと思います。
古いお数珠はどうしたらよいですか。

●答え

*   お正月にお数珠を新しくされるとのこと、とても素晴らしいことだと思います。気持ちも新(あら)たに、お仏壇のご本尊さまを拝む、こんな清々(すがすが)しいことはないでしょう。
  さて、そこで今まで使っておられた古いお数珠です。「新調すればもう用はない。しかし、ゴミに出してしまうのは、はばかられる」ご質問の主旨(しゅし)はそんなところでしょうか。
  「お数珠の糸が切れると縁起(えんぎ)が悪い」などという方もありますが、そんなことはありません。経年変化(けいねんへんか)や使用状況で糸が切れるのは当然で、それはご自身の信仰の証(あか)しであり、親御さんから頂いた、菩提寺(ぼだいじ)さまから授(さず)かった、そんなものならば、家族の歴史でもあります。
  年末の大掃除。中には「私は物への執着(しゅうちゃく)を捨てることに成功した」という、いわゆる「断捨離(だんしゃり)」の実践者もあるでしょうが、何も捨てるばかりが良いことではありません。
  長年使い込んで黒光りした菩提樹(ぼだいじゅ)の実のお数珠などはじつに味わい深いものです。よほど珍しい石や材料ではない限り、足りなくなってしまった珠(たま)を補充することもできますし、もちろん糸や房(ふさ)の修理も可能です。
  新しい物には新しい物の良さがありますが、古い物にも価値を見いだして大切にお使いください。


 
●質問
お寺で食事のことを「お斎(とき)」と呼ぶのはなぜですか。

●答え*

*   「腹の皮が突っ張ると眼の皮が弛(たる)む」の言葉通り、満腹になると誰しも眠くなるものです。最近、ダイエットや健康管理のために、一日のうちに時間を決めて食事をするという「プチ断食(だんじき)」が流行しているようですが、仏教では修行に集中できるようにと、修行者の守るべき「戒(かい)」の中に「正午から翌日の日の出までは食事をしてはならない」という規定があり、今でもこれを実践しているところもあります。
この食事が許される時間帯を「正時(しょうじ)」、してはならない時間帯を「非時(ひじ)」といい、この「正時」に頂く食事を「とき」とか「さい」と呼んで「斎」の字をあてました。食事にかかわる規定が時間帯によって決められていたので、食事そのものを「おとき」と呼ぶようになったというわけです。
「茶事(ちゃじ)」で出される軽い食事のことをいっていたものが、この頃は和食のコース料理を指す言葉になってしまった「懐石(かいせき)」も、元を正せば、修行僧がこの「非時」に「温石(おんじゃく)」といって焼いた石を布でくるんだものを懐(ふところ)に抱いて、空腹と寒さをしのいだというのがそのいわれです。
これから迎える食欲の秋。天地の恵みの何を頂いても美味(おい)しい時期。ついつい食欲に任せて暴飲暴食に走りがちですが、「お斎」というのはまさに「医食同源(いしょくどうげん)」、時にしたがった規則正しい生活が第一と心得て、過ごしたいものです。


 
●質問
お盆に父が亡くなり、まだ納骨(のうこつ)を済ませていません。お中元は例年通り贈ってもよいものでしょうか。また、頂くことも差し支えありませんか。

●答え*

*  お世話になった方に贈り物をするという「お中元」は、中国の道教(どうきょう)の行事と仏教のお盆の行事とが結びついたものと考えられています。
  今でもその習慣が残っているところがありますが、わが国でも、ご先祖さまばかりでなく「生御霊(いきみたま)」「生盆(いきばん)」といって、健在の両親に贈り物や食事を差し上げてもてなすことが行われていました。
  さて「お中元」は、謝意(しゃい」)を表すために贈るものですから、原則からいえば、葬儀から日が浅いかどうか、服喪(ふくも)の期間中であるかどうかは、直接には関係のないことです。
  しかしそうはいっても、ご納骨も済まないうちは、まだまだお取り込みでしょうから、時期にこだわって無理をすることはありません。お盆が過ぎ、香典(こうでん)返しも済ませてから、「暑中お見舞い」「残暑お見舞い」として贈ってもよいでしょう。
  また、紅白の水引(みずひき)の付いたのし紙も、悲しみの癒(い)えないうちは抵抗があると思います。白い無地の短冊(たんざく」)を利用するのも一つの方法です。
  いずれにしても、お中元のやりとりをされるほどの間柄なら、お父さまが亡くなられたこともご存知でしょう。差し上げるにせよ、頂戴(ちょうだい)するにせよ、あなたの事情はご理解いただけるのではないでしょうか。


 
●質問
「喪主(もしゅ)」「施主(せしゅ)」はどう違うのですか。

●答え*

* 以前は、亡くなった方のある家では、「忌中(きちゅう)」と掲示がされていましたが、葬儀が自宅で行われることが少なくなるにつれ、その風習もだんだんに見られなくなってきました。
同様に「親族を亡くした人が、一定の期間、家にこもって身を慎(つつし)む」という追悼(ついとう)の礼である「喪に服する」という行為も、かつては、両親は十三ヶ月、子供は九十日などと規定されていましたが、現在では年賀状を遠慮する以外にはほとんど行われなくなりました。したがって「喪主」というのは、いまや「葬儀を中心になって執(と)り行う当事者」というだけの意味になりつつあります。
これに対して「施主」は、「法要(ほうよう)を執行(しっこう)する当事者」=「お寺さんに差し上げる<お布施(ふせ)>を出す人」という金銭的な費用負担のイメージがつきまといますが、この言葉の持つ意味はそれだけではありません。実は「施」の字が示しているのは「布施行(ぎょう)」という修行でもあるのです。
亡き人を想い、偲(しの)ぶ法要の日、その中心となって「布施行」を積むのが「施主」というわけです。
もちろんそれはお金だけのことではありませんし、法要の日に限ったことでもありません。笑顔で人に接する、優(やさ)しい言葉をかけるなど、日常生活の中で、人に幸福を与える実践の機会はいくらでもあるはずです。
毎日のお仏壇へのお給仕(きゅうじ)など、各人各人が自(みずか)ら「施主」となってできることを探してみましょう。


 
●質問
「涅槃会(ねはんえ)」とはどんな法要ですか。

●答え

 「涅槃会」は仏教を開かれたお釈迦さまの入滅(にゅうめつ)(亡くなられた日)に合わせて、その様子を描いた「涅槃図」等を掲(かか)げて催(もよお)される、ご遺徳(いとく)を偲(しの)ぶ法要です。わが国では、多くが二月十五日、またその前後に行われます。
 仏教では、人間は、「六識(ろくしき)」=眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)(見る・聞く・嗅(か)ぐ・味わう・感じる・思う)という基本的な感覚のそれぞれに「無明(むみょう)」=貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)(むさぼる・いかる・おろか)と「悪見(おけん)」=慢(まん)・疑(ぎ)・見(けん)(あなどる・うたがう・悪い考えを起こす)の「六煩悩(ろくぼんのう)」を本として、数え切れないほどの悩みの火種(ひだね)を抱えている、と説いています。
 「涅槃」のもともとの意味は、燃え盛る「煩悩の火が吹き消された状態」のことです。常に心穏(おだ)やかな平安の境地に達せられ、生きてそれを体現されたのがお釈迦さまですが、亡くなられて肉体が消滅し、迷いのない状態に入られたと考えて、「亡くなること」=「涅槃」と表現されるようになりました。

 涅槃会や皺手(しわて)合する数珠(じゅず)の音

 これは、松尾芭蕉の『続猿蓑(ぞくさるみの)』にある句です。江戸時代も「涅槃会」には、今と変わらずお年寄りのお参りが多かったのでしょう。しかし、「煩悩の火を消す」という「涅槃」本来の意味に立ち返れば、老若を問わず、過去を反省し、現在を見つめ、未来に思いを馳(は)せる、そんな自分の心と向かい合う一日にしたいものです。


 
●質問
(めい)が「仏式」で結婚することになり、式にも参列することになりました。どんなことに注意したらよいでしょう。

●答え

 姪御さんのご結婚、誠におめでとうございます。まさに今までの「ご縁」があい整って、この日を迎えられたことと思います。
さて、一口に「仏式結婚式」「仏前結婚式」といっても、宗派によってそのやり方はいろいろです。しかし、そのいずれにもほぼ共通しているのは、ご本尊様の前でご両家の先祖代々の人々に思いをいたしながら、新郎新婦が、今後仏教徒として生活していく誓いを立てる、という形式に則(のっと)っている点です。
「仏前結婚式」は、ご住職などによる、お釈迦さま、宗祖さまの御教(みおし)え、これからの信仰生活の中で守るべきことなどについての「お諭(さと)し」を中心に進められていきます。
結婚式 そして、それを受けて、新郎新婦が「誓いの言葉」を読み上げるのですが、ここでの「参列者の役割」は何かといえば、それはお二人の誓いを「見届ける」人となることです。
「見届ける」ためには、あなた自身もその内容を理解しておかなければなりません。新たな一歩を手を携(たずさ)えて歩みだそうとするお二人のために、参列者であるあなたも、我が身に振り当てて真剣に「聴聞(ちょうもん)」しましょう。それが今後も温かく「見守っていく」目を養うことにつながっていくのです。


 
●質問
生前親しくして頂いた方から葬儀の時のお香典とは別に、父の「新盆(にいぼん)」にと「御仏前」を頂戴しました。何かお返しをした方がよいでしょうか。

●答え

  親しい方、愛しい方を亡くされて最初に迎えるお盆。寂しさ、懐(なつ)かしさ、喪失(そうしつ)感、いろいろな感情がわき上がる中で、悲しみを新たにされておられることとお察しします。
  そんなときに、お父様のご友人が特別に「新盆」にと供えて下さった「御仏前」は一入(ひとしお)ありがたいものに感じられたことでしょう。
  お盆に、現金や品物を贈る場合、現金なら、その方がなさったように「御仏前」あるいは「香資(こうし)」などと表書きし、品物なら「御供」と書きます。お盆の期間中に直接先方にお参りできないときには、お悔み状を添えたいものです。
  頂いた方が何かお返しすべきかどうか、ということですが、何も返さないというのは心苦しく感じられることと思います。
質問  ただし、お返しは決して高価である必要はなく、お茶やタオルなどが無難だといわれます。亡くなった方のお好きだったお菓子や故人を偲(しの)ぶよすが、思い出を語る材料になるような物があれば、その方がいいでしょう。表書きは「新盆」と書いて行を変え、「粗供養」または「志(こころざし)」と書きます。
  郵便などでお送り頂いたときには、お礼状にご遺族の近況など書き添えれば、先様も安心されるでしょう。


 
●質問
ひび割れた墓石(ぼせき)を新しくしようとしたら、親戚から「何でもないときに墓地に手を着けると家族の誰かが亡くなる」と止められました。本当ですか。

●答え

  もし「墓地に手を着けると家族の誰かが亡くなる」のが本当だとしたら、その逆は「墓地に手を着けなければ家族の誰も亡くならない」ということになります。そう聞けば、それが真実でないことは一目瞭然(いちもくりょうぜん)でしょうし、そんな「統計(とうけい)」があるとは聞いたこともありません。
  もちろん、家人に重篤(じゅうとく)な病人がいる場合などには、墓石を新しくしようとすれば、その方の死を予感(よかん)させますから、十分な配慮(はいりょ)が必要です。しかし、闘病(とうびょう)に際して医師が患者に十分に情報を提供し、患者の同意を得るという「インフォームド・コンセント」という考え方が浸透(しんとう)しつつある今日では、余命(よめい)を宣告されたご本人が、生前にご自身の気に入るように墓石を発注される例なども、まま見受けられるようになりました。
お墓イメージ  人の生死がどのように定まっているのかは、実は誰にも分かりません。どう行動しても、この世に生を享(う)けたときから運命的に決まっている、自らの行動によって変えられる、どう思うかは人それぞれです。
  いずれにしても、墓石の建立(こんりゅう)がそれを大きく左右する要因(よういん)になるとは考えられません。お彼岸や亡くなった方のご命日など、いつでも「思い立ったが吉日(きちじつ)」と心得て差し支えないと思います。


 
●質問
最近「エンディングノート」という言葉を聞くようになりました。どんなものですか。

●答え

 遺(のこ)される家族に迷惑(めいわく)をかけたくない、しかし「遺言書」というような大袈裟(おおげさ)なことはしたくない。そんなことから考えられるようになったといわれる「エンディングノート」。
 一口に言えば「法的な拘束力(こうそくりょく)のない遺言書」ということになるでしょうが、その内容は一様(いちよう)でなく、いくつかの側面(そくめん)があります。
 まず、自分が最期(さいご)を迎える際の終末期の医療や葬儀、埋葬(まいそう)などについて「苦痛は和(やわ)らげて欲しいが、延命(えんめい)は望まない」「誰と誰に知らせて欲しい」「両親と同じ墓に入りたい」等々、「こうして欲しい」という事柄(ことがら)について具体的に書き留(と)め、それを判断する人を指名しておく、という「遺言書」に近い内容。
 一方、自分がどんな人たちとご縁を結んできたかなど生い立ちを振り返る部分、さらには、今後残された人生に、まだこれだけのことをしておきたいという目標を掲(かが)げる部分など、書き込む内容はいろいろです。
* 「エンディングノート」は、必ず「記した日付」を記入し、いつの時点での自分の心持ちなのかをはっきりさせておくことが大切だといわれています。
 さて、新たに迎えた年。
 「一年の計(けい)は元旦にあり」といわれますが、この「計」が、実は「エンディングノート」なのでしょう。


 
●質問
最近「家族葬(かぞくそう)」という言葉を耳にしますが、「密葬(みっそう)」とは違うのですか。

●答え

葬儀 「家族葬」「リビング葬」など呼び方はいろいろですが、都市部を中心に、会社や近隣の人に知らせることなく、家族や本当に親しい友人のみを招くだけの葬儀が行われるようになってきました。
 まるで個人宅の居間のような式場に棺(ひつぎ)を安置し、スナップ写真や生前のビデオ映像を見たり、参列者が会食しながら、思い出を語り合うといった、故人との「別れ」に主体をおいた葬儀です。
 これに対して「密葬」はとりあえず近親者のみにて一旦葬儀を執(と)り行い、後日告知の上、改めて「本葬」「表葬(ひょうそう)」を行う場合に使われる言葉ですから、「家族葬」とは基本的に違うものです。
 少子高齢化(しょうしこうれいか)が進み、亡くなる方の同世代の知り合いはすでに無く、また喪主も現(げんえき)を退(しりぞ)いている。地域社会との関わりもさほど深くはない。さらには、弔問者(ちょうもんしゃ)の接客や挨拶(あいさつ)などから解放されたいなどの思いが、このような形式の葬儀を生み出した一因(いちいん)でもあるようです。
 かつては「通夜」が、その字の通り、夜通(よどう)し故人を偲(しの)ぶという役割を担(にな)っていましたが、他人に見せる儀式に変化する中で「家族葬」も需要が高まってきたものでしょう。
 ただし、葬儀社の用意したパッケージのみが優先(ゆうせん)され、後で、菩提寺(ぼだいじ)さんとのトラブルになる例も少なくないようです。事前に充分な相談が必要でしょう。


 
●質問
今回の地震の津波でお仏壇もお墓も、ご先祖の遺骨(いこつ)までも流されてしまいました。どのようにお盆を迎えたらよいですか。

●答え

????  今回、東北から関東にかけて広範囲に被害をもたらした巨大地震は、まさにわれわれの経験値をはるかに超える規模で牙(きば)をむきました。一つの市や町、村が丸ごと津波にのみ込まれ、あたかも空襲後の焦土(しょうど)を思わせる惨状(さんじょう)には、ただ言葉を失うのみです。ご冥福(めいふく)をお祈り申し上げますとともに、お見舞い申し上げます。
  今なお毎日のように余震が続き、一万人を超える方々が行方不明、ご遺体の身元確認も進まないという状況の中でも無情に時は過ぎ、まもなく今年もお盆の時期を迎えます。
  当然のことながら、「例年通り」に行事を勤(つと)めることは不可能でしょう。多くのご寺院も被災(ひさい)されていますから、お寺の方も「今まで通り」というわけにはいきません。
*
????  また「計画的避難」という呼び名の「強制退去」によって、このお盆を懐(なつ)かしい故郷で迎えることのできない方も大勢いらっしゃいます。
  「復興(ふっこう)」や「新生(しんせい)」の先行きが不透明な中、「十分な供養がしてあげられなくて申し訳ない」というお気持ちになられることもあろうかと思います。
  今は、いつでも、どこでも、その場で掌(て)を合わせ、静かに亡き方のことを想って頂くだけで十分です。その尊(とうと)い気持ちは必ず通じます。
 
●質問
幼稚園の「花まつり」の仏さまは、なぜ白い象に乗っているのですか。

●答え

*
????  「花まつり」は仏教を開いたお釈迦(しゃか)さまのお誕生をお祝いするおまつりです。ですから、「花まつり」の仏さまは、生まれたばかりのお釈迦様のお姿を表しています。
  お釈迦さまは、元のお名前を「シッダールタ」といい、いろいろな説がありますが、今からおよそ二千五百年前、紀元前四六三年の春・四月八日に、花咲き匂(にお)うルンビニの花園で、シャークヤ族(ぞく)(釈迦(しゃか)族)の太子(たいし)としてお生まれになったといわれています。その「釈迦族の聖者」という意味の「シャークヤ・ムニ」を漢字で「釈迦牟尼(むに)」「釈迦牟尼世尊(せそん)」と音写(おんしゃ)し、それを縮めて「お釈迦さま」「釈尊(しゃくそん)」などと呼んでいます。
  そのルンビニの花園を表しているのが、お花で飾られた「花御堂(はなみどう)」ですが、そのお堂が白い象に乗せられているのは、一つには、お母さまの摩耶夫人(まやぶにん)が、空から六本の牙(きば)のある白い象が降(お)りてきて、右脇から身体(からだ)の中へ入る夢をご覧になり太子を懐妊(かいにん)されたとの、「托胎霊夢(たくたいれいむ)」という伝説によっています。六牙(ろくげ)の白象(びゃくぞう)は、あらゆる人々を救うすぐれた知恵(ちえ)や長寿の象徴(しょうちょう)だといわれています。
  また、自然界にはなかなか存在しない白い象は、インドや東南アジアでは特に神聖視(しんせいし)され、国王などごく限られた、高貴(こうき)な人の乗り物であったことにも由来(ゆらい)しています。
  お釈迦さまを稀有(けう)な存在として尊(とうと)び、慕(した)う人々の気持ちが、こうした表現を生んできたのです。
 
●質問
初詣(はつもうで)にお寺にお参りしたいと思います。正しいお参りの仕方を教えて下さい。

●答え

初詣
????  初詣に限らず、お寺参りの基本は「合掌(がっしょう)」と「礼拝(れいはい)」です。
  「合掌」にはいくつかの方法がありますが、一般的なのは、胸の前、丁度(ちょうど)みぞおちのあたりでしっかりと両の掌(てのひら)を合わせる「堅実心(けんじつしん)合掌」といわれるものです。角度は四十五度位。指先が下へだらっと垂(た)れ下がっても、逆にあまり上を向きすぎていても、心が落ち着きません。
  昔から「右仏(ほとけ)、左衆生(しゅじょう)と合わす手の内ぞゆかしき南無(なむ)の一声(ひとこえ)」などと歌われるように、右手を仏さま、左手を自分と考え、きっちり寄り添うように隙間(すきま)無く掌を合わせるのがよいといわれていますが、お年寄りや子供さんなど、それが難しい場合には無理をすることはありません。花のつぼみのような形の「合掌」を「虚心(こしん)合掌」といって、けがれのない心」の現れといわれているからです。
  「礼拝」は額(ひたい)・両膝(りょうひざ)・両肘(りょうひじ)を地に着けて伏(ふ)し、掌を上に向け、仏さまのおみ足をその上にお乗せする形で行う「五体投地接足作礼(ごたいとうちせっそくさらい)」が一番丁寧(ていねい)なので、心持ちはそのつもりで「合掌」し、苦しくない程度にお辞儀をすれば十分でしょう。
  先を争っての押し合いへし合い、大きな声でのおしゃべりや携帯電話の使用を避け、誰もが心静かにお参りできる環境を整(ととの)えることも忘れてはなりません。いわずもがなですが、もちろん仏前では「柏手(かしわで)」を打ってお参りすることはありません。






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